本当に、ありがとう。


祖父は、私が生まれた頃にはほぼ寝たきりだった。そして、64歳で逝った。
父は、心臓弁膜症に罹り、3度弁置換手術を受け、最後は腸閉塞になる。そして、母の誕生日の翌朝に56歳で逝った。
大叔母は、脊髄損傷で生まれ生涯両足で立つことはなかった。そして、82歳で逝った。
祖母は、高血圧症ではあったが、自己コントロールに長けていた。そして、98歳で逝った。
今も、4人の生き様・死に様をまざまざと思い出すことができる。それは、物心着く前から43歳まで私自身も介護・看護の担い手として、一つ屋根の下で老いと病を負う彼らと共にあったからだ。 満タンの尿瓶を鼻先まで掲げてトイレまで運んだ幼き日。急変した父を乗せた救急車の後を、初心者マークを付けて追走した日。どんな日も大叔母の膀胱洗浄の処置をして一日を終えた日々。オムツは嫌だと脱ぎ転んで祖母を抱えて尿まみれになったあの日。 その時は、ただ必死で、どうにかしたくて、やるしかなくて、笑うしかなかったあの出来事も、時が経てば経つほどある思いに行きつき、悔いる。それは、四人それぞれの元気だった頃に一ミリでも戻してあげられるような介護・看護をすべきだったこと。懸命に生きて来た労いを込めて、「ああ、なんか今日は昔に戻ったみたいだ!」という笑顔を浮かべさせてあげられるのは、家族だけに出来る事だから。そんなことに気づいたのは、大叔母が晩年によくこう言ったからだ。「もう少し、楽になって死にたい」と。その時は時間に追われ、その深意を解そうともしなかった。でも、自分も尿管挿入や手術を体験し、寝たきりであることが羞恥を始めとするどれほどの精神的苦痛を味わわねばならぬことかを痛感した時、この言葉の痛みに滂沱の涙が落ちた。大叔母だけでなく、祖父にも父にも祖母にも、一番の苦しみから一時でも開放する術はあったはずなのに。と。  そして、今、母が認知症前段階として老いを帯び始めている。これまでの母ではあり得なかった言動・行動に、悲しすぎて怒りさえ湧く時、大叔母の声が耳に響く。もしかしたら、母も苦しんでいるのか・・・・。そう、気持ちを変えることができる。頼りにしていた、誇りにしていた、ずっと一緒にいられると思っていた。そういう幸せが失われていく怖さに、介護する側の家族(私)はつい力んでしまうんだよ。今のうち母にそう言って泣きべそ顔を見せられたらいいのに。意地っ張りな私にはまだ出来ない。でも、大叔母のあの言葉だけは、母に言わさないよう努めると仏壇に手を合わせる。おじいちゃん。お父さん。おばちゃん。おばあちゃん。  本当に、ごめんなさい。そして、本当に、ありがとう。


(東京都・J.K/女性)