唄を忘れたカナリア


平成九年四月、主人は還暦を迎えた。

三人の子供達の教育投資も終わり、やれやれと一息吐く。これから二人の時間を積み重ね、人生を大切に過ごしたいと願いながら、毎日の生活に明け暮れていた。

 

そんな矢先だった。

なんと主人の喉に異変が生じた。体格に比例しての声量・声質も良く結婚式等で詩吟を披露すると好評を博し、本人も悦に入る事しばしば。

朗々とした澄んだ声がなんとしゃがれ声に変わっている。

実家の母も心配し、「一度先生に診察してもらった方がいいのでは!?」と進言。

喉頭がんでないことを願い専門医へと。幸い良性のポリープだった。安堵の胸を何度なで下ろしたことだろう———。が、極楽蜻蛉(ごくらくとんぼ)の主人は至って、ケロリとしていた。

 

手術に臨むについて、先生に何度も質問し納得した上での手術。

帯を傷つけ声を失った人が周りにいたので慎重になっていた。

何より安心材料として、信頼関係が構築されたことに裏打ちされ、心を委ねられた言の葉、「自分の父親を手術する心算で臨みますからどうぞ安心してください…。」の一言だった。

立ち会った息子と切除されたポリープの断面を見ると摩訶不思議。

茹でたうずらの卵を輪切りにしたかのようだった。うっすらと薄墨色をした円形の輪郭が妙に印象に残った。「信ずるものは治癒する!」と先生の台詞通り従来の声を取り戻せた。

 

その後、二年経つか経たないうち、何の因果か今度は肝臓がんが見つかった。

入院患者には知人がいて、しかも同部屋で同年齢、お互いにまだ若いし体力もあり意気投合。手術など何の其の、二人して入院生活をエンジョイしている感すらした。

それもそのはず、医師から「手術は成功!」と太鼓判を押されていたから。嬉嬉とした姿を見て私だってもちろん嬉しい。が、なんとも言えない複雑な感情が湧出した。

 

歌を忘れたカナリヤにすっかり変心。

生業のことなどを一切口にしなかったのだ。言えなかったのか、はたまた言わなかったのか、意図が読めず解らず終いとなった。

 

そば打ちは開店以来主人がずっと打っていて私は一度も打ったことはない。

この一件がこの時災いに。

病院で教えを請うまでもなく、又、教えられても、実地でなければ大きなカッターがネックとなり、指でも切断したら取り返しがつかない……。

思い余って実家の手打ち製麺機を借りてきた。

真夏の暑さに加え、不慣れも手伝い手打ちで四キロも打つともう悲鳴をあげる始末。

汗の中に体躯があるのかと錯覚すら覚えた。主人も好きで病気になっている訳ではない。ここが正念場とアクセルを入れ直し、歯を食いしばり、鞭を打ちつつ頑張った。

幸い嫁さんが接客に当たってくれたことが、唯一の救いだった。

退院後は主人の心身を軽減させたく、出前はいつも一緒に出掛け、鞄持ちならぬ岡持ちで随行。この間、そば屋の女将として製麺機の習得に励み、マスターした。

妻の私がそばを打つので安心した訳ではないだろうが、何気なく主人の右手中指を見ると腫れて爪が浮いていた。「どうしたの、その指!」「わかんないよ、ばい菌でも入ったのかな?」と呑気な会話に打ち砕かれた。

 

三度目は皮膚がんと診断が下り、中指に二節目で切断。

今度は末端部を切断したので、相当きつかったと溢したが、ユーモアもあった。誰かが「渡世人みたいだね」と言ったら、「いや!そちらの人は指が違うよ」と言いながら小指を立てニンマリしていた姿が昨日のように彷彿と浮かぶ。

ここにきて、何故、何故なんだろう。

最後の最後までガンで苦しまなくてはならないのだろう!

世間でよく言うがんのデパートと錯覚するくらいがんに見舞われてしまう。

苛立ちと矛先を誰に向ける術もなく、いつも病院から自宅へ直行。切ない———。

 

六十七歳の誕生日も過ぎ、四月下旬に入り仕事に忙殺される日々が続いた。

仕事を終えカウンター越しに見る主人の目が妙に黄ばんでいた。「目が黄色いけど体躯怠くないの!?」「蛍光管が黄色っぽいでそう見えるのだろう!」と人事のように平然としていた。

これは只事でない。取るものも取らず市の夜間診療所へハイヤーで駆け込んだ。

明日、朝一で病院に行くよう指示を受けた。

他市の大きな病院行き、諸々の検査の結果、胆管ガンと診断。

黄疸も相当きつく表出し、主人もそれとなく生命への危機を悟り始めていた。死への不安と恐怖を———。

 

今度の病院に入院に関しては、長期県外出張していた娘が市内に帰っていたので、一日も休まずに私の休憩時間に合わせ病院まで便乗し主人を見舞い、また、疲弊しきった私の心身を励まし助けてくれた。

主人の体力は日増に落ち、食欲も受けつけず当然のごとく痩せて別人の様を呈した。が、昼食には「そうめんが食べたい」と言い出し病院の許可を得て、家からセットし運んだ。

美味しいと言って食べてくれるのは嬉しいが、何ら栄養の足しにはならない。

病院に行くたびに「だんだんと体が壊れるのが分かる……。」と。

病名もステージ状況も把握していた。

生命への執着は健在で、転院を希望したが、入院当初から余命三ヶ月と宣告され最早体力的に無理だと説諭。

 

一時帰宅の許可が出たおり、土産の駅の北側に分譲墓地を見つけると「終の住処はあそこがいい!」と断言。

辛くて何度対応していいかわからず、聞こえないふりをするのが精一杯だった。

あの時の対応の良し悪しを月日が流れてもしばらく引きずった。主人は納得して私に最後を託したのだろう———。

 

相模灘を眼下に羨望し、故郷の小高い丘で静かに眠っている。

満足な介護ができたか否かは不明だが、遺言を汲み取れたことで全てが許容され、安泰な日々を享受している。


(神奈川県・Y.O/女性)