愛言葉


改めて申すまでもなく『介護はゴールの見えないマラソン』です。マラソンが得意の方は何の苦もなくマイペースをキープして走りぬくことも可能でしょうが、その山あり谷ありの道のりを完走できる人ばかりではなく、やむを得ず途中でリタイアーする方もあると思います。
私の姉がその一人でした。姉は自らの父を全力介護し九十歳で看取り、嫁ぎ先の母を百歳で亡くなるまで介護、そして実家の母が九十五歳の時、一足先に七十歳で大動脈乖離という病で急逝しました。幸いにも母は認知症が進行し息子と孫の区別がつかない状況でしたので、姉の死は知らせずに済みました。姉は親三人の介護に誰よりも尽力し、自らは誰にも介護されることなく旅立ったのです。介護には『愛言葉』が必要です。
私たち姉弟四人のそれは、亡くなった姉が提唱した『母が父の元に旅立つ日が私たち姉弟の恩返しの終わる日』でした。父が彼岸に向かって八年、私たちはその愛言葉に支えられ何とか介護を全うできました。亡き父の口癖は「俺と妻は家が貧しかったから、尋常しか行けなかったが、子供達には大学へ行かせたい。金は使えば無くなるから残さない。頭は使えば使うほど良くなるから教育だけは与えたい」でした。両親は無一文から汗と涙で自らの身体を切り刻んで働き、財産を築き、父が道楽に溺れてからは、母が欲しい物も求めず孤軍奮闘して私たち四人を大学に送ってくれました。母は施設入居を拒み続け、九十七歳で老衰するまで、在宅の介護を望みました。
私たちは交代で母の元に泊まり込み、不眠不休で頑張りました。母の口癖は「借金の無い暮らしがしてみたい」でした。私たちが社会に出て、母の望みは叶いましたが、その数年後、母は脳梗塞で倒れ右半身が麻痺しました。それでも母は涙を流しながらリハビリに励み、何とか自分で歩けるようになり、父が亡くなるまで懸命に父の面倒を見ました。
父に尽くし、子に尽くす人生を全うした母。母は子供の顔は忘れても介護してくれる人に「ありがとう」の一言は忘れないでくれました。これが苦労人の母の愛言葉でした。志半ばで旅立った姉と母の愛言葉、そして赤ちゃんの様な母の笑顔が私たちの長くせつない介護の日々を暖かく支えてくれたことに、私は心から感謝しています。


(大阪府・M.T/男性)