自宅で死ぬということ 父編・母編


私の両親は、既に他界しています。父は八十八歳で、母は九十二歳で旅立ちました。「百歳まで生きる」というのが二人の口癖でしたから、さぞ無念だったことでしょう。今は「人生百年時代」となりましたが、戦争をくぐり抜けてきた人達だからでしょうか、「長生き」には特別の思い入れがあったようでした。  実家は信州の安曇野で、目前には険しい北アルプスがそびえ、周囲には田んぼや、麦、蕎麦畑が広がり、未だ日本の原風景が残存しています。青い空に白い雲、山また山の時間が止まったよう所です。晩年になってようやく、家の前を通る地域のコミュティーバスが日に四便往復開通しました。それ以前は、市から年間十枚程度のタクシー券が配布されましたが、市街まで行くだけでも、タクシーを呼ぶと往復五千円かかりました。親子三代で同居し一人一台の軽自動車の家々に埋もれて、私の両親のように車もバイクも持たない高齢者もいたのです。マイカーを持つ人や、都心在住の人には想像もできないでしょう。 そんな田舎で生まれ育った私は、バスや電車を待つ時間が、人生の無駄のように思え、横浜の大学に進学し、そのまま就職、結婚し、子どもたちも地元の学校に入学すると、なかなかUターンできなくなりました。夫も同郷の出身でしたので、週末帰省することが何よりの双方の親孝行でした。今まで何度、中央道を往復したのでしょう。小仏トンネルや相模湖周辺道路の渋滞は激しく、命の危険を感じた台風にも二度遭遇したことがありました。このように休日は実家の往復でしたので、家族旅行にはほとんど出かけたことがありません。両親は「無理せず来なくてもいい」とは言いませんでした。 勤続四十年で退職した今も、実家の草刈りや家のメンテナンスで、月に一度は帰省しています。ひと雨ごとに暴力的に伸びる草や、油断すると庭木もすぐに森になってしまいます。税金もダブルでかかりますし、冬期は極寒です。でも風光明媚で、夏は涼しく、畑では無農薬の野菜が採れます。体力、気力の続く限りは、実家の往復を続けようと思います。 今回の企画を機に、晩年の両親との関わりを振り返ってみたいと思います。


(東京都・H.O /女性)