祖母と私の思い


介護の難しさ、大変さを実感したのは今は亡き祖母を家で一年程看た経験からである。
私達とは離れて暮らしていた祖母が病気をし手術を受けた。
病気は完治し退院となり、それまで通りの生活がしたいと退院後すぐに祖母は自宅へ戻っていった。
病気になったショックから自宅に戻ってほどなく祖母は心を病んでしまった。
生活面のことはできていたけれど、外出が減り人とも会わなくなって家に閉じこもりがちになった。
嫌がる祖母を説得し私達と同居することになった。そこから私たち家族の世話が始まった。

一緒に暮らし始めた頃は何ら変わらない生活を送っていた祖母だった。

ところが、ある日突然独り言を言い出した。

よく聞いてみると、何で病気になったんやろ、なんでこんなことになってしもたんやろ。と病気になったことを仕切りに悔しがる言葉を発していた。

私達に聞かれると嫌だったのか、私たちの足音が近づくとピタッと口を紡ぐことに、おばあちゃん子だった私は日ごとに変わっていく祖母の言動に戸惑いを感じずにはいられなかった。

 

そして、1人でこなせていた日常生活は日を追うごとにできなくなっていった。

中でもずっと忘れられずにいることがある。

それは薬の服用についてだ。昼食の際に1錠ずつ服用し何日かは自身で飲んでいた。

ある時、祖母の食べ終えたお膳を下げようとするとお盆に丸い形のものが見えた。

錠剤だった。ついに祖母は薬の服用を拒みだしたのである。

薬については飲ませないわけにはいかないのでそばについて飲むように促す。

これには祖母も抵抗し飲むの飲まないので毎回手こずった。

この頃になると祖母の言動は家族も驚くほど荒っぽくなった。

薬を投げ飛ばしたり隠したりと難儀なことをした。

こちら側も飲ませようと必死なので言うことを聞いてくれないとつい声を荒げてしまう。

薬の丸い形状がわかると祖母は拒否するので母と私とで考えたのが薬を粉々に砕くことだった。

小さくて割りにくいので金槌を持ち出して台所で割る。根気のいる手間仕事だ。

割った薬をおかゆに混ぜ込んで祖母の元へ。

頭がしっかりしている祖母はおかゆに白い粉々を発見するや、お粥には手をつけずブツブツと何やら呟いている。

台所では母と私がため息をつく。とんとんかんかんと薬を割る金槌の音だけが虚しく響く。

実の娘である母もこれにはかなり苦労していた。

そして、祖母の世話をしたことで知らなかった祖母の一面もうかがえた。

聡明で何事にもどっしりと構え、少々のことではうろたえたりしない人だと思っていた。

病気をしたことで気弱になり意欲も失い心を病んでいった。

荒っぽく攻撃的になったかと思うと、でも一方で、孫である私に時折見せるおばあちゃんの顔も覗きみる。

私が出かけようとすると気を付けて行きなさいと言ったり、夜遅くまで起きていると早く寝なさいと気にかけてくれたりするのだ。

頑なな中にもねぎらいや優しさが見え隠れする。祖母なりの気の遣いのようだったのかもしれない。

介護すること、とりわけ肉親や身内の介護に至っては、介護する、側される側の両方が労いや思いやりの言葉を求めてはいけないと思う。

いたわってくれてありがとう、迷惑かけてごめんねなど世話される側はこういう思いを抱いたりするのだろう。

対して世話する側もありがとうとかすまないという気持ちを表してほしいとどこかで求めていることも否めない。

実際に何かしら「してやっている」「○○のためだから」などの感情が生まれてきて世話の有り難さを押し付けていた。

つまり身内の介護は対価を得てする介護とは異なるということ。

頑張ろうね、○○できてよかったねなど綺麗事で片付けられない介護の現実がそこにはあるのだ。

家族という集合体の中で人間たるが故の人間臭さをモロにぶつけ合う。まさに根比べだと思う。

すんなり行くはずの日常がいちいち中断し、もめなくてもいいことで争ったりする。

身内なのに、いや身内だからこそなのだ。

その感情なり気持ちなりをありのまま吐き出せばいいのではないかと私は思う。

唯一、感情を持ち合わせている人間という生き物だから。

そうすればお互いに身も心も疲弊し不幸な介護生活を辿るということもなくなるだろう。

祖母が亡くなって二十年以上が経つ。

ほんのわずかな間の経験だったけれど、世話をすることの大変さを身をもって知ることができた。

それを教えてくれた祖母には感謝している。

そしてもし、この先、私が母を看ることがあったならば、この体験を活かしつつ世話ができるよう人間的に成長していたい。


(福井県・K.S/女性)