母が100歳を目前に、古の古傷が悪化して介護施設へ入所した。私が訪ねると、まず施設の不満をぶちまける。「欠点を探すのもボケ防止だ」と私は相槌を打って聞き流していた。母も言い終わると自宅の庭の草引きや除草剤の使い方を支持した。
亡くなる2年位前から、視力、聴力が不自由になっていた。103歳にもなれば仕方がないと私はノート持参で大きな文字を書きながら、話し相手をした。まず私の名前を書いた。母はじっと見て私の名を口にしたが、少しすると「あんた愛子さん?」と母はしっかりした口調で叔母の名前を言うようになった。私は大きく自分の名を書いた。度重なると、「さっきも言ったでしょ」とややヒステリックに伝える。施設を出た途端、いつもどうしてあんな態度をとったのか、と自己嫌悪に陥りながら帰っていた。
90歳で亡くなった祖父と父は認知症とは無縁だった。母と向かい合うことに神経が持たなくなり、訪ねるのも苦痛だった。私は居直った。逆らわずに母の脚本に乗った。母の娘の頃の話らしい。私はアドリブで役をこなした。母の声に表情が出てきた。会話が弾む。私の気持ちも楽になる。母が私を母の妹と認識していたとしても、もう気にならない。「帰るね、また来るから」と言う私に、以前は無表情だった母が笑顔で手を振った。
しばらくして母は、104歳の生涯を閉じた。
(大阪府・M.N/女性)
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