最後の一年


七年前の五月三日に、母が胃がんで亡くなった。
母親の家は長寿の家系で、九十歳前に亡くなった人などめったにいないような家だったから、まさか、胃がんになるなんて、ましてや、それで死ぬなんて思ってもいなかったから、そのショックといったらなかった。
父親などは、「どうせ、俺が先に死ぬから、おめーは、ひろえに見てもらえ!」と、いつも口癖のように母親に言っていたから、まさか母親の方が、しかも、病気で先に死ぬなんて夢にも思っていなかった。だから、そのショックが全ての始まりになってしまった。
父親は、その頃からなんとなくおかしくなりはじめた。話し方、行動がおかしくなり、突然痴呆のようになってしまった。
心配になった私は、二十五キロ離れた山の方の日帰り温泉に毎日連れて行った。頭の中の血流が改善されれば、治るのではないかと期待したからだ。
幸いなことに、私の考え通りに、症状は日に日に改善され、家から二キロ先にある病院へ自転車で通勤できるまで回復することができた。

それから六年ほど経った十月三日、朝起きると、居間がおしっこで、池のようになっていた。時間が経った部分の畳が、既におしっこを吸い取って、その部分の色が変わっていた。
「なんだ!これは……」そう思いながら立ち竦む私に、父親が、
「俺もよくわかんねんだけど…起きたらそうなってたんだいな〜。なんなんかなぁ…」そう、他人事のように言った。
突然、父親は、なぜだか急にフラフラして立つことが困難になった。
夜中、父親がトイレに行く時には、私が脇に手を回し担ぐようにして連れて行ったが回数にして、十回くらいだっただろうか、年寄りとはいえ、男の人を運ぶのは大変で、腕も肩も痛くヘトヘトだった。
一ヶ月ぐらい経つと症状はだんだんと改善されたように見えたが、さらに一ヶ月ぐらい経つとだんだんと症状が悪くなって、前よりも酷くなってしまった。
「何とか、年が越せるだろうか…」不安に押し潰されそうになった。
一月に入ると徘徊が始まった。
少し目を離すと外に出てしまう。
ある時、私が近くの日帰り温泉から戻ると、父親の姿が見えない。風呂場から押し入れから、家中探してみたが見つからなかった。
とにかく見つけなくては…。そう思ってベンチコートを羽織ると、外へ飛び出した。
困り果てた私は、両親と仲良しの近所の斎藤さんの家に向かった。九時半頃だっただろうか…。斉藤さんは、「そうかい、そりゃ、大変だね。」そう言って玄関から出てくると、一緒に探してくれることになった。
二人で半径一キロくらいを見て回ったが、結局、見つけることはできなかった。時間は、すでに十一時近くになっていた。
「こりゃ、どうも見つからないから、警察に電話してみな」そう言われ、家に戻るとすぐに電話をかけた。
電話口のまわりさんは、父親の特徴を聞くと枕カバーか使ったタオルを用意しておくように告げた。警察犬用にだ。
私は怖かった。何も悪いことをしていなくても、道でパトカーにすれ違っただけでも、ドキドキするのに、自分で警察に電話をして、ましてや警察犬まで来るなんて、一体、どうしたらいいのだろう……。足がガタガタと震え、両手を胸のあたりで固く祈るように結んでいた。
「なんで、こんなことになってしまったのだろう…。」悲しい気持ちでいっぱいだった。
警察の人達が来て、「警察犬が到着するまで時間があるので、この辺りを探してきます」そう言って出ていった。
まもなく、父親が見つかったと言って、二人の警察官が連れてきてくれた。なんでも、近くの砂利のある駐車場にいたということだった。
父親のニット帽にはたかり物がいっぱい付いていて、それを警察官の一人が一生懸命に取ってくれている姿を見て、「なんて優しい人なのだろう」と、そう思った。それを見ているうちに、私の警察官のイメージも和らいで、怖いとは思わなくなっていた。
結局のところ、警察犬が到着することもなく無事解決した。私は、知らなかったのだが、実は、その時パトカーが五台来ていたそうで、本当に申し訳ない思いでいっぱいになった。

その後も父親は私を苦しめた。
夜中の三時頃になると、元々几帳面な性格のせいか、布団をきちんとたたみ、真冬だというのに、毎晩それをやっては、「寒くてしょうがねぇ〜よ。おい、何とかしてくれよ。」そう言っては暴れていた。
その度布団を敷き直しては、「頼むから寝てくれないか!」と、そういうのだが、一晩中、その繰り返しをしていた。
別の日には、台所にある電子レンジを持ち上げていることもあったし、二階の私の部屋まで上がってきては、「ここにいるのは分かっているんだぞ!出てこねえならこのドアぶっ壊してくれるぞ!」そういって暴れ、叫び続けていた。
私は、恐怖と戦いながら、毎晩、この繰り返しをしながら、父親を一回も部屋に戻した。
そんな時の父親は、普通では考えられないくらいのバカちからが湧いて、二人ともそこら中がアザだらけだった。まるで、毎日がプロレスだ。
私は、父親を怒鳴りつけた。それは、子供の頃から今の今に至るまで、ずっと出来ずに我慢していた感情だった。私の中でずっと息を潜めていた感情が、ついに出てきてしまったのだ。遅れてきた反抗期だ!
生まれて初めて父親を怒鳴った。父親は、頑固な昔の人で、他の人に言っても信じてもらえないくらい大変な人だったから、口答えなんて絶対に許さない人を、初めて本気で怒鳴ってやった。
すると、怒鳴る私を見ている私がいて、少しずつ積もり積もった澱のようなものが、ほんの少しだけ取れた気がした。
私はよく怒鳴った。それは、憎かったたからではない。怪我をすると危ないからだ。
父親が暴れるのを止めようと、何度も怒鳴っているうちに、私はいつしか子供の頃から言えなかったすべてを、今、ここで吐き出そうと思った。そうしなければ、きっと、私は変われないと思ったからだ。
父親は、最後に私にその機会を与えてくれたのではないだろうか…。そう、思った。
もしかしたら、最後にそれをやらせてくれるために、今、こうなっているのではないだろうか…。そう思えてならなかった。
父親から私への最後のプレゼントだ。
苦しくて泣いた。どうしてこんなことになったのかと考えて、また泣いた。それなのに、いつしか苦しいはずのことが楽しくなっていた。あんなに苦しかったのに、やってるうちに、不思議なことに、私は、楽しいと思ってしまったのだ。
生まれて初めて父親と本気でぶつかれたことが嬉しかった。だから、きっと、父親も私と同じ気持ちのはずだと思った。私と本気でぶつかれたことを、きっと、楽しかったと、幸せだったと思ったのに違いないのだ。
それは、私が一番よく分かっている。どんな親だって、どんなに最低だって、だって、親子じゃないか。

父親は、正気の時にこんなことを言ったことがある。
「どんなに憎まれ口を叩いたって、わかっているよぉ〜」そういった。
私はただ「うん」といったが、気持ちが一つであることを感じていた。
あまりに苦しい時、殺したいとも、死にたいと思ったが、もちろん、できなかったし、それをやってしまったなら、いつかまた生まれ変わった時に、同じ苦労を味わうようで、なんとしてもやりきることを決めた。

父親がおかしくなった日から丁度一年後の十月三日の夜九時ごろ、グワッと変な声を出したが、大丈夫だろうと、十時頃もう一度見ると、既に息をしていなかった。私は、慌てて心臓マッサージをした。
隣の婦長さんをした佐藤さんを呼ぶと、
「これは、ダメだよ。救急車を呼んだ方がいいみたい」と言われ、救急車を呼んだ。
今思えば九時ごろ、グワッといった時が最後だったのかもしれない。
そして、父親を旅立った。私と父親の長く、短い一年が終わった。
私は、この一年間、ほとんど一睡もしないくらい寝なかった。もちろん、眠ろうとしても眠れなかったと思う。
父親が逝ってから近所の人達に、
「よく頑張ったなぁ〜。偉かったよ。」そう言われた。
「自分の家で、娘に看取られて逝けたんだから、最高に幸せだよ。なんたって、自分家が一番いいに決まってる。最高に幸せだったよ。だから、元気だぜ!」そんなことも言われた。
私はこれで良かったのかなぁ〜。そう、今でも思っている。
だから、私は、こう言った。「好き勝手ばかりして、威張っていて大変で、この一年だって本当に大変だったのに、なぜだか次はもっと上手くできると思った。」
「それでいいんだよ。やっぱり、親子なんだから。きっと、分かっているから大丈夫だ!」
「やっぱり、私はバカなんだ!まだ懲りてない。また、逢えるかな…。」
「あぁ、逢えるよ。逢える。きっと、逢えるよ。」
私は、次回もまた、頑張ってみようと思っている。コツは掴んだ。だから、次もまた、あの人の娘に生まれたいと思っている。
私は棺桶の中の父親に言った。
「必ず見つけて。約束だよ!どんなことをしても、私を探し出して。何度生まれ変わっても、やっぱり親子でいたいんだ!どんなに貧しくたって、どんなに大変だって、それでも何度でも、親子でいたい。ねえ、お願いだから……。」そういった。
次は覚悟しておけ!わかったか!


(群馬県・H.A/女性)