母の肉じゃが


私は母の作る肉じゃがが好きだった。
会社から自宅に帰り、玄関の窓を開け、肉じゃがの香りがすると嬉しさがこみ上げてきた。当時は20代で食欲旺盛で何度もおかわりをしたのを覚えている。
今から10年前の冬、私の母は筋肉が失われていく病気になった。母から体に力が入らない、足が上がりにくいといった訴えがあり予兆はあった。医者から告げられた。今まで普通にできていた日常生活が難しくなる。突然の宣告に驚きを隠せなかった。
すぐさま命に関わる病気ではなかったが、治療のために2週間入院することになった。困った。何がって。私の家族は4人だが、この時、父は事故で腰を骨折して違う病院に入院して身動きできな状況だった。私は社会人2年目だったが、年度末に退職が決まってていた。また、兄も実家暮らしをしていたのだが、料理や買い物など家の事はずっと母に任せきりだった。この先の生活様式がどうなってるかが不安だった。
季節は春となり母は退院した。父も怪我が完治して家に戻ってきた。
久しぶりに家族4人が揃った。だが、母は元気だったときの筋力はなく、料理を作るのが困難になっていた食事はお惣菜や外食でそれぞれ済ませ、家族団欒の時間がなくなっていた。
そんなある日、私は母に問いかけた。
「料理を教えて欲しい」
この時、私はパートタイムで働いていて、ある程度時間に余裕があったし、自分で作れるようになったら母も楽ができると思った。急にやる気を出した私を見て、母はきょとんとしたが「やってみる?」
と笑い。快く私の料理修行を引き受けてくれた。
まずは味噌汁や卵焼きなど比較的簡単にできる料理から教えてくれた。
筋力が落ちたが右手で、フライパンを持ち卵焼きを焼いて見せてくれる母、その横顔はうれしそうだった。
最初は母が作る様子を見ていたが具材を切ったり調味料を入れたりして少しずつ料理が作れるようになった。
そんなある日、「肉じゃがを作りたい」と私は母に伝えた。
「水は具材が半分被るくらいにいれるんよ」「醤油はおたまの
3分の2位やね」この頃、母は長時間立てなくなり椅子に座って料理の様子を見守ってくれていた。
初めての肉じゃがが完成し、家族
4人で食べた。「じゃがいも、かたいなぁ」ひと口食べた父が言う。「煮込みが足りなかったかなぁ」と母。「うまいんじゃない」兄はそう言いながら完食した。初めて作った肉じゃがはホロ苦い結果となったが家族が揃った食事は暖かい空気に包まれていた。
それにしても、母に料理を教わるようになってから料理ってこんなに大変だったのかと気づいた。毎日、メニューを考えないといけないし、一生懸命作っても食べる時間はあっという間、そしてピラミッドのような高さの洗い物…
私は母の偉大さを知った。
その後、私やカレーやマーボードーフなど様々な料理を母から伝授された。スーパーに買い物に行くのが普通となり、どこに何の食材があるかをしっかり覚えたどうすれば美味しくできるか考えるようになった。美味しくできると家族が褒めてくれた。母も安心してまかせられると喜んでくれた。いつの間にか料理を作ることが楽しくなっていた。
料理の楽しさを教えてくれた母に感謝である。
そして母が病気になったことで今までいかに支えてくれたかを知ることができた。
その
10年後、母は旅立った。母と一緒に作った料理の時間は貴重な思い出として胸に刻まれている。
現在、私は結婚して日曜日は妻に料理を振る舞っている今日のメニューは肉じゃがだ。もちろん母、直伝の味であるじっくりと煮込まれた肉じゃがを召し上がれ。


(愛知県・H.N/40代・男性)