祖父の思い出


今から40年以上も前、介護施設やデイサービスもない頃のことである。
私が小学校を卒業した3月に、祖母が六十七歳で亡くなり、間もなくのことだった。
「通帳ねぐなった」なくなったのは通帳ではなく、七十歳の祖父は正常な思考を失い、認知症になってしまったのだ。それから13年間、亡くなるまで奇行は続いた。
食後すぐ「飯まだが?」が癖になり、昼夜逆転し、昼食事にご飯茶碗の中に顔を入れて寝てしまったり、うっかり食卓に出したままの農家から頂いたトマト10個や、作ったばかりのイクラの醤油漬けなど、夜中に全部食べてなくなっていたり、お菓子の袋に入っている乾燥剤を食べてしまい、口唇を腫らしたこともあった。
タンスの引き出しのシャツと股引を全部引っ張り出して重ね着し、雪だるまのように出てきたり、トイレで裸になり、ウォシュレットを出しっぱなしにしながら、手ぬぐいで体を洗っていたり、空箱の上に座ってズボッとお尻だけ入ってしまったりと、同居していた父母姉私妹は、つい笑ってしまいながらも呆然とする出来事が毎日のこととなった
廊下はよく見てから歩かないと、粗相をしていてしょっちゅう靴下が濡れた。
中には部屋中大便だらけにする人もいるらしいと聞いていたので、まだマシだと思っていたら、ある日祖父の枕元に焦げ茶色の物体が、ティッシュに包まれて置かれていた。
とうとう大便も食べるようになったのかと、私はへなへなと部屋と床に座り込んでしまった。
気を取り直しポリ袋を持って近づくと、いい匂いがする。
それは姉が面白がって買ってきて、洗面所で使っていたチョコレート型の石鹸だった。
みんなが寝静まると、泥棒のようにほっ被りをして、部屋から出ていつの間にか外出し、夜中に徘徊を繰り返し、何度も近所の人々や、警察のお世話になってしまい困り果てた。
それで父は最期まで世話をすると腹をくくり、部屋の改装を決めた。
床はビニールクロスにし、部屋に洋式トイレとシャワーを取り付け、見違えるほどキレイで便利になった。
大工さんが処分する粗相だらけの畳を運んでいると、祖父に凝視されたようで「おじいちゃんに運ぶたび睨まれました」と笑っていた。
早速外から鍵をかけ、皆安心して眠りについた。が、夜中にドアを叩く音に一同目を覚まし、ドアを開けると、祖父は額に玉の汗をかいていた。
本当に手ごわい病で、一人で介護すると考えただけで、想像を絶するほどの恐怖だった。
明治四十年生まれの祖父は、幼い時に父を亡くし、小学校へも行けず、弟と共に奉公に出されたそうだ。祖父のお話では男が十円で、女が三十円だったという。
花火職人の奉公、土方、馬車屋、炭焼き職人を経て、炭焼きのの卸業をしていた。
馬車屋をしていた時の取引先の人が同郷で、自分の妹を祖父にと、祖母は顔も見ないまま、秋田県から函館に嫁いできた。
父が産まれた後、祖父は太平洋戦争に招集され、勲章を三つ持って帰ってきた。
昭和三十年後半、父とともに炭の仕事をしていたが下火となり、所帯を持った父は次女の私が生まれた年に、鶏卵の生産販売を始めた。
母と当時まだ独身だった同居していた父の弟二人も祖父母も、家族総出で手伝った。
忙しく働く両親の代わりに祖父は、小学生になった私たち孫を映画、外食、デパート等に連れて行き、いつも楽しそうに逆立ちの練習をしたとか、タコ部屋にいたなど戦争の話をしたものだ。
「タコ部屋って叩かれるんでしょ?」と問うと、なんと叩く係だと聞かされ唖然とした。
祖母が体調を崩した頃、母も慢性リウマチを患っており、家事を手伝ってくれる人を週三回、短時間頼んでいたが、祖父の面倒も見てもらうことになり、いつの間にかフルタイムで頼むほどの状態になってしまった。
いつも三姉妹を可愛がってくれて働き者だった祖父は、仕事は手伝えなくなったが、店や事務所に出向き、何気なく見回りをして、花壇に植えたパセリを草取りよろしくすべて摘んでしまったり、来客の隣の椅子に腰掛け世間話をするのかと思ったら、いきなり来客に出したお茶を飲んでしまったり、来客の車が汚れていると、勝手に洗車をして驚かれることが何度もあった。
帰ったはずの来客が戻ってきて、祖父が車の助手席に乗っていて
「家に帰るから乗せて行ってくれ」と頼まれたと困惑されたこともあった。
もしかしてたまご屋に行くと、いつも事務所に鎮座している、名物爺だったのかもしれない。
高校生になった私は、時々友人に祖父の話をしており、その友人が家に遊びに来たとき祖父に会い、挨拶をしようとしたら笑いそうになり満面笑みで「ははは、こんにちは」と笑いをこらえるのに必死だったそうだ。
祖父の服は地味な茶色やグレーが多いので社会人になった私達姉妹は、若々しいTシャツやトレーナーを買って着せた。
鶏卵を買いに来る主婦達に似合うと褒められ、祖父はまんざらでもなさそうだった。
そのTシャツの袖口に足を入れ、事務所に置いていた自転車にまたがり、転んだ祖父は一瞬脳の働きが正常になり
「俺、バカになってしまった。すまねえな。」と涙を流した。
それを目の当たりにした姉は、Tシャツを脱がしながら、もう記憶は戻らない方がいいんだと胸が詰まった。
祖父は祖母が亡くなったことを理解しておらず、その事実を近所の人から聞くたび衝撃を受け、初めて知ったように繰り返し死を悲しみ同じ話をした。
祖母は高等女学校卒業しており、読み書きができない夫婦の赤ん坊に名前をつけてあげたり、手紙を読み、代筆もした。
私達の息子の名前も祖母が漢字を考えた。
両親に大切に育てられた祖母は、料理もお裁縫も得意で、季節ごとに様々な漬物を漬け、カツオがたくさん手に入った時も、煮たり焼いたりと何種類もの料理方法を考え作った。
家族全員の浴衣、ちゃんちゃんこ、半てん、丹前などを手作りし、家庭の暖かさをしみじみ味わったのに、なぜか優しい言葉を一言もかけられずに、たまに口に合わない料理を作ると「うまぐねぇからお前食え」と残しがっかりさせた。
炭焼きの仕事が思うようにいかない時など、酒を飲み八つ当たりしたと話し、しょんぼりとするのだった。
孫の名前は完全に忘れ、ねっちゃんと呼ばれ、「え…私のこと?」と初めて呼ばれた時はさすがにショックを受けたが、自分の故郷の住所と息子達の名前だけは正確に覚えていて、いつもその住所を口にし、「家に帰る」と故郷に帰りたがり幼子のように大好きな父が出かけようとすると「ゆう、(父の呼び名)どごにいぐんだ?」と後追いをした。
七十七歳になった祖父の喜寿祝いに父は姉と共に祖父を生まれ故郷、秋田県仙北市(元の仙北郡)へ連れて行った。
七十年ぶりに来たというのに、1人の老女が声をかけてくれた。
「勇治郎でねぇが?」「んだ」と答えると、突然の再会にも関わらず、彼女は近所の婦人たちを誘って、たちまち料理を作り振舞ってくれたそうだ。
祖父の両親の墓参りを済ませ、田沢湖で三人はモーターボートに乗った。
父と姉は祖父が喜ぶと思ったのだが、楽しかったのは二人だけで、祖父は驚愕し顔面蒼白になったらしい。
まだ祖母のところへは行きたくないようで、湖に振り落とされまいと、必死にボートにつかまっていたそうだ。
八十歳を過ぎると祖父は足が弱り次第に歩けなくなった。
寝ていると床ずれができて、コールタールがこびりついたように変色し手に負えなくなり入院することとなった。
その翌日、見舞いに行くと、別人のように大人しくなり、みんながビックリすると薬を飲ませたからだと知った。
あんなに飯、飯と言って騒いで歩いていた祖父は静かに病院で一年を過ごし、結核の疑いがあると病棟を移動した日の夕刻、息を引き取った。看護師が「おじいちゃん、ごめんね」と耳元で優しく囁いた。
小柄だが頑丈な体は赤子のように丸まり、湯灌師はまっすぐにすると、骨が折れるのでこのままにしますといった。
まるでこれから生まれるかのような姿で、平成元年六月に祖母の元へと旅立った。
初孫の姉が生まれた時に、小学校に行くまでは生きていたいと言っていた祖父は、姉が三十路手前まで共に暮らし、父とは五十年以上苦楽を共にした。
「じじちゃん、今度生まれ変わってばばちゃんと出会ったら、私達を可愛がったよに大切にしてあげてね」と私がつぶやくと「わがってる」と声が聞こえたような気がした。

 


(北海道・Y.Y/女性)