満足に寄り添えなかった切なさ
定年後、夫は奉仕活動組織 の初代会長を務め、嬉々として頑張っていました。
私も夫のそんな姿にエールを送りながら、 年取って夫が活躍の場ができたことを有難く思っていたのです。
それから八年経った頃だったでしょうか、急に夫がうつ状態になり、家にこもって、人とも会えなくなり、孫までくるのを嫌がるようになったのです。
私が二階に上がったりして、私の姿が見えなくなると泣き声になり、私を呼ぶのです。
お酒やカラオケが好きで、社交的だった夫が、まさか、こんな病気になろうとは夢にも思っていなかったので、私は戸惑うことばかりでした。
夫を知る人たちは「あんな元気だった人が考えられん」と言って、びっくりしていました。
この年齢(七十二才)で動けなくなったら、この先どうしようかと心配になりました。
かかり付けの医師に相談したら、夫の変わりようにびっくりしましたが「プライドのある方だから」と、ディサービスを進めてくれたが「イヤだと言うと困るね」と言われました。
有難いことに施設の若いスタッフが迎えに来てくれると、喜んで行ってくれ、ほっとしました。
施設では大好きなカラオケの 時間になると喜んで歌い、スタッフの言うことも素直に聞いてアイドル的存在にもなりました。
家では怒りっぽくて、大声で怒鳴ったりする反面、私に、そばにいてほしくて甘えるようになったのです。
外でつっぱって生きてきた反動なのかと思い、なるベく寄り添ってあげるようにしましたが、 こちらも家の事すべて背負っていかなければならなくなり、夫が満足できるようには介護をできなかったことを、今になっては後悔しています。
夫は糖尿病の精か 、体が痒く、朝晩、裸にして毎日薬を塗ってやるのも大変でした。
うつが治ったと思ったら、認知症になり、進行が早く、大声を上げたり、暴力をふるうようになり、私一人では支え切れず入院することになったのです。
私と離れてしまった寂しさが分かるだけに、毎日切ない思いで病院通いをしながら、 病院の敷地に車椅子を引いて、カセットを持って、オヤツを食べさせながら、大好きなひばりさんの歌をかけてやりました。
はじめは大声でうたったりしましたが、だんだん元気がなくなり、病院の敷地にある介護施設を梯子しながら、最後は誤嚥肺炎になり、口から物が食べられなくなり、 会話もうまく聞き取れずになってしまいました。食いしん坊の夫がものが食べられないのは、見ててとても切ないことでした。
夫のベッドのかたわらで手をにぎりながら 愛している・ありがとう と、いつも、感謝の気持ちを伝えましたが、聞きとれたでしょうか。
亡くなる前、一年七か月、家で面倒が見られず、施設や病院のお世話になり女房失格だったのではないかと、自責の念に堪えません。
暴力をふるうので私一人では、面倒が見切れず、甘えん坊の夫を見放したみたいで、可哀想なことをしたと、亡くなって、はじめて夫の深い愛情を知り、涙にくれる日々に情けない思いもしています。
葬策には、ひばりさんの「川の流れのように」をかけ、車が好きだったのでリムジンで送ってやったことが、せめてもの救いでした。
(愛知県・Y.A/女性)