手を広げよう


「もう針の穴から世の中を見てるようなものてす」医師は真っ直ぐ私に言った。視野狭窄症。母の目はもうほとんど機能していなかった。
目が見えない世界。それは危険を知らせる信号さえわからない。真っ暗で、終わりのないトンネルにいるよう。身の回りのことが何ひとつできなくなった母。診察の日。「病院は嫌」と言う母に「ダメよ」と私は叱った。だけど私が手を引けば、母は後ずさり。すすむ。とまる。またすすむ。ぶつかる。転ぶ。またぶつかる。ココロも身体もそんな感じだった。

だけど母は寝言でこんなことを言った。
「ひとりでも大丈夫よ」おそらく一人で何もできないもどかしさから、こんな夢を見ていたのだろう。本当は一人で何でもやりたい。ヒトの手を煩わせたくない。そんな母の気持ちが垣間見れた。

だから私は決めた。手を引くんじゃない。手を貸すのでもない。手を広げようって。手を広げて待っていたらいつか母が飛び込んで来てくれそうな気がする。だから無理強いはさせない。母に押し付けることもやめよう。

そう決意したいま、母は見えないなりに自分で身の回りのことをやり始めた。私ももどかしさは握りこぶしに隠して、その様子を見つめる。母の気持ちがわかった今、親子仲はこれまで以上に良好である。


(埼玉県・K.Y/60代・女性)