病んで知る愛


正月三ヶ日も過ぎ里帰りをしていた主人の兄弟達も帰りほっと一息ついたその夜、急に股痛にわれ薬箱から正露丸をとりだした。胃痛、腹痛には正露丸ときめていたのでさっそく飲んでみたが一向に治まらない。もう一回飲んでみよう、いつもなら一回で効くのが痛さが治まるどころか腹痛は激しくなるばかり。「お父さん、我慢できないからあすお医者さんへ連れていってな」と声を絞って主人に頼み、エビのようにくねりながらも夜明けを待って町医者の門を叩いた。

診察をしながら首をひねっていられたお医者さんは「これはどうも盲腸のような気がする、しかし場所が背中に寄っているのが気がかりだが紹介状を書くからこの医院へ行ってくれませんか」と言われて小さな病院へ駆け込んだ。

「うんこれは移動性の盲腸だな。でもあの町医者は内科専門だけどよう見つけられたな 」と関心しながら看護士さんに手術の用意をするよう促し早速開腹手術となった。

「移動性腸ではあるがようこんなとこまで動いたな、早くから軽い腹痛があっただろう慢性盲腸だ」「ほんにひどいことになっていますね」お医者さんと看護師さんの会話は局部麻酔なので私の耳に飛び込んでくる。時々何か刷られるような鈍い痛みを感じるがそれほど気になるものではない。

昨日から小雪がちらつき外は昼間だと言うのに薄暗い手術室は蛍光灯が青白い光を放している。 どこからか笛の音が叫こえてくる、 何だろうと考えていると私の心を読みとった ように「初恵比寿が近づきましたね」看護士さんが言った。

「そうだね、日は早く暮れるな」 短い医師の返事である。

「これは化膿がひどくて盲腸で治まらず大腸まで化膿しており、しっかり継うことができない。この程度にしてしばらく様子を見るか」

なんだか不安ではあるが名医と聞いていたので命を預けることにした。

病室に運ばれ「もう大丈夫ですよゆっくり休んで下さい」看護士さんは優しく微笑んでくれた。母も駆けつけてくれ主人と二人が私をのぞき込み「大変だったね、でもこれで安心だ。」

一晩二人はそばについていてくれた。

病気知らずの私は小学から高校まで皆勤をしている。

翌日主人は家に帰った80半ばの義父が、一人で留守病室にいる間も気にしていた。

小さな病院ではあるが入院しているのは私一人だった。

主人は勤めに出かける朝ポットに湯を沸かし届けてくれ私の顔を見てだいぶ顔色が良くなったねと励ましてくれ、帰りには必ず病室を訪ねてくれた。

義父の面倒を見、立ったことのない台所で料理をして父に食べさせ弁当を作って雪の中を勤めに出ていた。

古い病室には、戸の透き間から雪が迷いこむ。

見舞いに来てくれた職場の友や近所の人達が「ああ寒い。風邪引かない暖房はできないの?」と震えながら見舞ってくれた。そういえば主人はホッカイロで足をぬくめて泊まってくれた。私は小さな電気あんかで足をぬくめていた。

一週間が過ぎてもガスが出ず、手術の話が出た時、やっとガスらしきものが出てお医者さんも安堵の微笑みを見せてくれた。

腸が無事つながり、通ってくれることが確認でき、ホットされたようだったが、夕方になると熱が出て退院は伸びていった。10日が過ぎ、主人の顔にも疲れが見受けられるようになり、これでは大変だと早く熱が下がるのを待った。

「少し歩いて見て下さい」と言われてベッドを下りてはみたが、足が地に着かない。まるで雲の上で浮いているようで、手すりを持っておそるおそる歩いてみるが、全く感覚がない。人間ってこんなに弱い者なのかとつくづく感じた。それから毎日少しずつ歩く練習をしていると、感覚が戻ってきてほっとした。

でも熱は午後になると38度を刺したままである。検温のたびに看護師さんが首をひねられる。外は近年にない大雪。ガラス戸に移る庭木が頬を地に伏し、道行くひとの腰ぐらいある。雪と風に辺りは白一色の世界と化していた。

何とか退院できたのはその3日後。看護師さんに見送られ、わが家に帰ってきた。出迎えてくれた義父も心なしかやつれて見えたが、笑顔で迎えてくれた。やっと家族3人が夕餉の善を囲める幸せ。主人には頭が上がらない。きつい勤めの中、しかも大雪の中を義父の面倒をみながら1日も欠かすことなく朝夕見舞ってくれ、食事の準備をしながら家族を支えてくれた。入院をして主人の愛と心の優しさを知り、感謝の気持ちを一生かかって恩返ししなければと思うと同時に、この人に巡り逢わしてくれた神様に感謝し、共に支え合い健康に気をつけ、お医者さん始め皆さんに助けられたこの命大切に生きよう。

夜空には薄っぺらな月が寒そうに下界を照らしていた。

 


(京都府・M.I/女性)