亡き父の涙


もう、かれこれ30年ほど前になる 。 田舎から出たことが無かった父を、私たちの家で、十日ほど世話したことがある 。初めての介護だった。 それは、身の回りの世話をしていた母が、白内障の手術で入院したからだ 。当時、父は70歳後半で 、足腰が弱っていた。
辛うじて、 近くのトイレには行くことが出来たが、入浴は無理だった。 わが家に来た初日は、少々戸惑っていた。 が、私の妻がつくる手料理が余程美味しかったのか、「こりゃ、うまい。 生まれて初めて食べた」と、真意なのか、お世辞なのか分からない褒め方をした。そのこともあって、直ぐに笑顔が戻ってきた。
ただ、料理は妻が作ってくれたが、入浴は私がしなければならなかった。30歳半ばまで父の体を洗うことなど一度もなかった。父の肩を支え、風呂場の介護椅子に座らせたあと、全身にお湯を流した。その後、 タオルで、お腹、手、足へ。最後に背中を洗おうとした時だった。父が、「おおきに」と言った後、 急に黙り込んだ 。 「どうした?」と思って顔を覗き込んだとき、父は目にいっぱい涙を浮かべ 、 頭を垂れていた 。私は、不意を突かれて、言葉が出なかった。 父が泣いたところを、一度も見たことが無かったからだ。
父は若い頃、中国大陸まで出兵したこともあり、「男は泣くものじゃない」を地で行く人だった。 母の手術も成功し 、10日ほどの介護も終わり、「やれやれ 」と顔をあわせた。
それから数年後。80歳になっていた父に大腸がんが見っかった。家に来た時は、そのような症状は無く、弱った体以外は食欲も旺盛だったので、全く気づかなかった。
亡くなる寸前、病院で両手を握りしめた私 、父は、「うん! 」 とだけ言って、目を閉じた。あの風呂場で体を洗ってもらったことが、人生で一番嬉しかったと、言ってくれたようだった。
私はすぐさま、冷たくなった父の手をギュッと握りしめ、「ごめん 、おやじ。十分な介護もせず、病気も見つけてやれなくてごめん ! 」と、何度も何度も、心の中で謝った。


(高知県・T.I/男性)