三人四脚 父と母と私と


私の父はアルツハイマー型認知症を患っています。  病気になる前の父は、作曲家として活躍していました。歌、ドラマ、映画、数多くの作品を作り出し、手がけた舞台も十数ヶ国で公演されるほど人気を博しました。瀬戸大橋の開通記念イベントで中国から来日したことがきっかけとなり、私が日本に留学し、家庭を築き、今に至っています。父は音楽以外、文筆、書画骨董分野にも造詣が深く、知性とユーモアに溢れた温厚な人柄で、常に大勢な人たちに慕われていました。母とも大変仲が良く、一人娘の私は17歳まで両親の深い愛情のもとで過ごし、その後も私たちは日本と中国の間を行ったり来たりして、充実した楽しい日々を送っていました。その平穏な日常すべてが、父の認知症の発症とともに崩れ、それまでの生活が一変しました。  父は認知症によく見られる物忘れや言語能力の低下以外、病状が進むに連れ、生活リズムを失い、人格の変化も著しく、暴言暴力、反社会的な行為、私たちが想像もつかない言動を取るようになり、日に日に別の人へと変わっていきました。健康だった頃の節度ある喫煙と飲酒が、今では記憶に留まらないため、一日中吸って飲んで、飲んで吸って。何度も止めさせる努力をしましたが、叩かれたりして、結局思いどおりにさせるしかありませんでした。人に不快な思いやケガをさせてはいけないので、4、5年前から母は父に付きっ切りの日々を余儀なくされました。  私は仕事と二人の子供もいるため、帰省する回数を増やしても長く滞在することができず、母の肩にのしかかる精神的、肉体的な重圧を軽減することができません。母には心臓に持病があり、遠く離れた日本で両親のことを思うと、心が二つに裂かれる思いです。帰るたびに、変貌する父と青あざを負ってやつれた母を見るのは辛くてたまりません。隣人の犬にけがをさせ謝りに行った時、人の洗濯物を汚して頭を下げに行った時、朝4時になっても寝ずにタバコを買いに行こうとする父を抑えきれず飛ばされた時……自分の無力さに腹が立ち、理屈が通じない父に苛立ち、持って行き場のない絶望感に押しつぶされそうになることも。母がちょっと目を離した隙に、父が誰かに、頭を下げても許してもらえないことをやらかすのではないか、母が大けがを負わされないか、毎日心が落ち着かず気がかりでなりません。住み込みのお手伝いさんを探しても、父の言動を見ると誰も引き受けてくれません。そんな状況を少しでも改善するために老人ホーム等を提案してみるものの、母は猛反対でした。叔母たちは長く父の面倒を見られない私を親不孝者と叱責し、最早私にできるのは苦笑いと父の書斎にある観音像にひたすら助けを求めることでした。  去年の5月、母が心臓発作を起こし入院することになり、自分自身の身体の状態に不安を感じたのか、急ぎ帰った私に、父が入れる施設を見つけて欲しいと言いました。もう少し早く、症状が軽い状態の頃であればまだしも、父の現状からでは、何十件の施設や病院をあたっても拒否されるところばかりでした。やっとのことで受け入れてもらえる施設があっても、縛り付けるなどの強硬な措置をせざるを得ないと言われ、母はその父の様子を見るのがいたたまれなくなり、結局家に連れて帰り、父と今まで通りの戦場のような生活に戻りました。空港で日本行きの飛行機を待ちながら、ガラスに映る無気力な自分とにらめっこして、非日常的な空間に身を置いたせいか捨鉢な気持ちになり、病気とか、施設とか、誰が悪いとか、今後の行方とか、それらのことはどうでもよく、どうにでもなれと、少しの間だけ何にも考えない時間を過ごしました。飛行機を降り、足が日本の地を踏んだ瞬間、私は現実に戻り、両親のことを心配し、みんなが納得する解決方法を探り、悩む毎日が続きます。  8月に帰った時、父は身体能力の衰えを見せ始め、おむつを使用するようになりました。  12月、父はお酒の飲み過ぎで、止める母と揉み合って転び、左足を骨折しました。私が仕事や家庭の段取りをつけて帰った時、すでに手術を終え医師の紹介で施設に入っていました。父はけがをしていることを理解できず動こうとし、その上、傷の手当てとリハビリも専門知識を要するため,施設を拒んでいた母も本当に仕方がなく決断したと思います。施設での父は世話をする人をたたこうとするので、手も足も固定され、夜中も『家に帰る』『帰る!』と大声で叫びます。母は一日の殆どを父と一緒に過ごし、“家族が構いすぎると良くない”と言われても、母は父が心配で通い詰めます。面会時間以外は施設の外に出るよう、最初は追い出されそうになりましたが、それでも何とか居続けさせてもらえるようになりました。母の父に対する気持ちやウチの状況を見て相当な情けをかけてくれたと思います。ようやく父を引き受けてくれた施設だけに、母のためにも、どうか父が追い出されないようにと祈りながら、後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、正月明けに日本に戻りました。  子としての自分、親としての自分、社会人としての自分、たくさん考えた末、仕事を辞めることにしました。3月に父の様子を見に帰ろうと予定を立てたものの、コロナウイルス感染症の大流行という波に阻まれ、身動きが取れない状況となってしまいました。中国の実家がある地域では住民の外出が厳しく制限され、母は父の様子を見に行くこともできなくなりました。いくら心配でもコロナの猛威下、仕方のないことです。4月に入り、ようやく面会可能になりましたが、厳しい健康チェックと回数、時間の制限が設けられ、顔を見て物を届ける程度しかできません。不思議なことに、父は母に会えない期間で、徐々に施設の生活に慣れ、睡眠、食事などの生活リズムも強制的な手段により、改善し始めました。たまに母が送ってくれる画像越しでも、体重が増え、顔色良くなったことが分かります。5月に入り父のケガはほぼ治りましたが、リハビリが上手くできないため、まだ歩くことはできません。体を固定されていますが、時には車いすに乗せてもらい、ほかの入居者がゲームを楽しんでいる様子を横で見ることもあります。本業の音楽の時間になると、たまに歌うこともあり、試しに竹笛を渡すと、短いメロディまで吹けたそうです。今まで殆ど二人きりで、張り詰めた空気、閉鎖した環境、お互いの甘えと甘やかしが返って父の病状を悪化させたのかもしれないと思いました。母は父の変化を見て喜び,私も長い間張りつめた心の弦をようやく、少しですが緩めることができました。  何年も会話らしい会話をしたことなかった父が、ある日突然思考力が戻り、母宛に手紙を書きました。  『あなた、元気かい?朝食を食べたか?何を食べた?字を書きたいからペンと紙を持って来て。今日は寒いかい?寒いなら服を足しなさい。果物を食べたいかい?我慢せず買いなさい。私は元気でいるよ、心配するな。病気治ったら海外旅行連れてってやるから、それまで自分のことを大事にして、私の帰りを待っててくれ。』  この手紙を読んだ時、私に漢詩を教える父、オーケストラを指揮している父、仕事で訪ねる先々で私たちのお土産を買ってくる父、友人とお茶を楽しむ父、孫を載せ骨董市に出かける父……数々の場面が走馬灯のように私の脳裏を駆け巡り、喉の奥がつかえ、涙が止まりませんでした。父は変わっていない、病気に支配されただけなのです。母はいつも心の目で父を見続けてきましたが、私は父の本来の姿を危うく見失うところでした。母がなぜ無理をして、苦痛に耐え、ギリギリまで父の世話をしたかったのか、このメモのような短い手紙は答えであり、母の救いであり、アルツハイマー型認知症という憎い病気の奥に埋もれた父の優しさの表れであり、そして愛情そのものであり、これはまぎれも無く父から母へのラブレターと思いました。  骨折、コロナ、帰省の目途が立たず、抗えないこと続きで、もどかしい気持ちの中半年が過ぎました。父の病状の改善だけを見ると、塞翁が馬のようなことの運びで、私の祈りが届き、観音様が救いの手を差し伸べてくださったと思いました。しかし、父が罹っているのは治せない病気であることも十分わかっていて、また悪くなる可能性の方がむしろ高いことも認識しています。これからのことは誰も予想できません。大きく喜び、または失望しないよう、私も母も心をより強く持たなければなりません。辛くなった時、過去に受けたたくさんの愛と幸せだった思い出を、暗く長いトンネルの光にして、母と二人三脚で、いいえ、父母と三人四脚で支え合って未知なる明日を受け入れようと思います。  国や人種に関係なく、認知症になってしまった家族と長く付き合っていくのは大変辛く、覚悟が必要であることを、この数年間の体験で痛いほどわかりました。介護に疲れ、苦しみ、先が見えなくなっている人たちみんなに、転機が訪れますよう、身辺に理解と善意がありますよう、弱音を吐いた後また希望を抱けるよう心から願います。


(香川県・I.M/男性)