母から学んだこと


母は八十一歳、昨年他界した。
末期のガンであった母がある日、「あれ母ちゃんの腹が大きくなっちょるように見えるけど(腹水)、腹に水が溜まっちょるんじゃないかなぁ?」と話しかけて紹介された病院に入ってからだった。
腹水は約三ℓにもなっていた。
「このままだったら三ヶ月後は死んでたかもしれませんよ。命を大切にしないとねぇ」と診断された。

この時期から母としては施設にはできる限り行きたくないこと、入院はしてもいいが自宅でなるべく身の回りのことは自分でやりたいことと何をしてほしいのかを普段の会話の中からも聞き取るようにしていた。
その中でも、会いたい人がいる、行きたいところがある、見たいものがある、やりたいことがあるという願いだった。

私は色々なことを尋ねたことで、幼い頃の想い出や人生の生活背景、そして今の母の気持ちをできるだけ行動や気持ちに同調してあげることが第一であった。

母は数回の圧迫骨折や多忙な仕事による姿勢から腰が九十度に曲がり、今では腰コルセットもサイズが合わずできなくなっていた。
かれこれ三十年以上も仰向けに寝ることができず、最近は杖は必ず、時々は車椅子を使用していた。また難聴もあり障害者二級を保持し補聴器を外すと全く聞こえなくなるのだった。

時間があれば母の住む実家へと自家車で向かい、声かけをすると椅子に座ったり横たわっては自己流で毛糸をかぎ針五号で袋や帽子を作るのが楽しみだった。

「あれ〜、編み目が飛んだごつあるけど、まあいいかぁ〜。まさか、こんなして編み物ができるようになるとは思っちゃらん程忙しかったからねぇ〜。悪いけんど、チャックだけつけてくれんね。」と手渡される私は手伝うこともあったが、次から次に作っては評価してほしいと言ってきては次に作る材料やデザインを考えるのが楽しくて仕方ないようだった。

「ちょっと買い物行くね。」とか「ドライブに行くね。」、「○○さんに会いに行こうか?」と尋ねると母の表情は、日頃の痛みや動作からは考えられない程ウキウキしてのびやかでしなやかさがあった。車の中では唱歌や母の好きな歌はよく歌った。歌本も買ったほどだった。
一番楽しんでくれたのは、聞いてあげられる私の傾聴だった。
母は運転している私に対しても道先案内や思い出話など幼き頃のことから最近までと事細かく説明ができるほどだった。

幼き頃の母達の時代は、満足に勉強ができず家族の手伝いや、戦中戦後の時代だったので苦しくとも楽しみを共有する生活だったことを一つ一つ細かく話してくれる母の表情を見ていると、過去を振り返ることは辛さばかりでなく聞いてくれる人がいることで楽しいことも沢山想い出されることでほっとしたような穏やかな表情になる母だった。

腹水の検査後からは、私は姉も偶然仕事も辞めたこともあり、孫娘も介護士であり、高齢者が好きと言いながら仕事も熱心な三人が毎日のように立ち寄っては日常生活で頼られることは手助けしていった。
母は在宅の間は食事作り以外はほとんど自らがやれることを希望した。だからこそ出会った時の様子や会話の中から変化がないかを知ることが大切だった。

母は昔、お世話をしていた自らの母や祖父母を見ていて、死が近いことは分かっていると話していた。

冬場のインフルエンザ流行中に咳き込みがひどくなり、腹水に血液が混ざるようになったのだ。母はモルヒネを希望し、これまでの痛みとこれから来るであろう苦しみからの解放を希望した。
すると今まで三十年以上も仰向けになって寝れなかったのに、痛みで辛かった毎日から解放され穏やかな表情となっていった。
ドライブにはならなかったが、病床から懐かしい想い出話や歌を歌ったり編み物をすることもあった。
特に歌は亡くなる三十分前までは一緒に歌ったり手拍子取ったりしていたのだ。
そして、「頑張るんだったよね?」と問いかけると、うんうんと大きく三回頷いてくれたのが最後だった

その時に姉と孫娘も一緒に母の最期を看取れて、孫娘は看護師の方の心遣いからエンジェルケアを一緒にさせていただいたのだ。
その孫娘はさらに学びを高めたいと看護学校へ今年より通学しているのだ。

介護は食事、排泄、入浴、衣服の着脱などが大変と言われるが、本当に私たちもいずれ歳をとって高齢者にもなるし、障害者として生活することになるかもしれないと一人一人心しておかねばならないのだ。

母から教えてもらったことは、元気なうちに、「もし何かあった時に何をしてほしいのか?」を常に話しの中から、行動の中から、仕草や性格等の本人の生活背景と心理面を語り合っておくべきだと痛感した。

介護する技術や方法は実施する前に最低限知っておくべきことであるが、一番は個別性を知っておくことでプライドとプライバシーは最低限でも守って差し上げることであると思う。

自分だったら好きな人だったら何を今するべきなのかを考えると、ひとつひとつの技術が工夫をしようとします。そして、すぐに反応があります。

介護をするという言葉には、その人の人生の一部を預かり学ばせていただき自分たちの将来の願望へと導かれるための教えなのだと思うことです。そうなると常に工夫することを学びます。私と姉は看護師ですが、母からたくさんのことを学ばせて頂き最後を共に過ごせたのです。

 


(宮崎県・F.T/女性)