今になって思うこと
「○○さんのお宅ですか?」
「はい、そうです」
「お宅のご主人が当病院に救急搬送されていらして現在主治医の先生の診断を受けていらっしゃいます。至急いらしてください。」
その知らせを受けたのは、その日の午後だった。いつもと変わらず父は午前中に出掛けていったのだ。まさかそんなことになるとは想像もできないほど日頃元気であった父だ。
母に知らせて、私と二人で病院に急いで出かけて教えられた病室に向かうと、ベッドの上に父が、そして主治医の先生が側に立って私たちを待っていた。
父は知人のお宅のソファーに座っている時異常に気付き自ら主治医のいる病院を指定し救急車を呼んでもらったそうである。
私の両親は定年で退職するまで高校の教師だった。主治医の先生やその奥さんも教え子で家族ぐるみの付き合いをしていたのだ。
「どれくらいで回復できるのかしら」
母は真っ先にその事を主治医の先生に問うた。主治医の先生は暗い顔で、
「長くかかりますよ」
と一言言われた。
その一瞬、母の額に複数のしわが寄り、唇を噛み締めたのだった。
病名は脳溢血であった。普段から血圧は高かったらしいが、かといってそれほど気にもしていない生活だった。
それからが、天国と地獄の生活になった。
半身不随という障害者になったわけである。それも夢から覚めてみると自分の体が自分のものではなく何一つ思うままにならないという最悪の状態を突きつけられたのだ。
当時は今のようにリハビリの設備もなく、又介護を他人に頼るという状況下ではなかった。
家族が協力し合いながら面倒を見るのが普通であった。そのためには日頃のこれまで自由だった行動を拘束されざるを得なかったのだ。母は誰の手を借りることもなく、朝から晩まで父の面倒を見ることの生活になり、その事で愚痴をこぼしたことは一度もなかった。
娘である私はというと、大した介護するわけでもなく、父とは顔を見合わせて冗談を言ったりする、呑気なものであった。その私の代わりをしてくれたのは私の長男であった。母は私よりも孫に頼みやすかったようで力仕事はみんな息子に任せていた気がする。
父がある時私に向かって
「死にたい」
とこぼしたことがあった。それは父の生涯で一度だけ聞いた言葉である。私はその時に何と答えたか覚えてはいないが、自分では上手く聞き流したつもりであった。しかし、今頃になってその言葉は私に重くのしかかってくるのである。母の叱咤激励によって体を支えを得て歩行できるまで回復したが、その三年後別の病気により手術をし日常の生活に戻れたが二年後帰らぬ人となってしまった。
介護を全精力つぎ込んだ母は、目的を失ってその後予想だにできなかった老人になってしまって見る影もなくなった。長年連れ添った伴侶を失って心の支えがなくなってしまったのだろうが、介護の危惧がなくなって自由な生活を取り戻せるのではないかと思った私は勝手な思い過ごしであったと気付いたのだ。しばらくは笑顔を見ることも会話もあったが、気がついた時には母はもう昔の母ではなくなっていた。
その原因が認知症だったと知ったのは母の死後である。当時「認知症」などという言葉はなく、「ボケ老人」それぐらいの認識であった。
老人になれば脳の働きが鈍り物忘れが酷くなる、くらいの常識であった。母のこれまでの経歴等を考えるとそんなことさえ思い浮かばなかった。しかし人間や、この世に生あるものは全て悲しい生き物である。
盛者必衰という理のあるように生のあるものはいつか死を迎える、例外はないのだ。
後悔は遅い、後悔する前に最善を尽くせ。
こんな教えが頭から離れなくなった。
介護とはする側もされる側も苦痛を伴うものである。身内でさえできない世話を他人にお願いするのである。認知症ばかりを扱っている介護施設で不祥事が起こることを耳にする度に世間は一斉に非難する。あってはならないことである。しかし、自分がその立場になったら感情のセーブが必ずできると言い切れる自信はない。お互いに会話のできる相手なら必死になって心を通じ合おうともできようが、感情のないままに相手から物をぶつけられたり暴れ出されたりしたら、どれだけ冷静に対処できるだろうか。私にはとても自信はなく、私にはこのような職種は無理だと断言するのだ。
だからこそ今、このような認知症の人達の介護をしてくださっている多くの介護士と言われる人たちのご苦労には心から敬意を表したいのだ。人間は自分の意思ではどうにもならない人間としての業を背負っているのだ。認知症というなりたくもない宿命の中に生かされていると言っても過言ではないだろう。
この人たちの人生を全うさせてあげてください。それが自分に与えられた宿命だと悟って。
きっと相手もどこかでそれを願っているのではないか、と私は思うのです。
(岐阜県・T.S/女性)