親は親


平成二年、母は脊髄腫瘍を患った。手術で一命をとりとめたものの、後遺症で手足に麻痺が生涯残った。母が要介護者になると共に 我が家の生活様式も一変した。何から何までやってく似ていた母が何一つしなくなった。
やってできないというほどのものでない家事にも一切手を出さない。不器用オリンピッ クがあれば金メダル確実な私が文字通りの山家事に悪戦苦闘する様を薄ら笑いを浮かべつつ、傍観するばかりであった。

幾つなっても親の前では子供は子供だというのが母の口癖だった。失敗した時、いつも泣きつき、尻ぬぐいをしてもらっていた。 申し訳ないと詫びる度、常に言った。「いいんだよ。うちにはもっと大きくて手のかかる 子供がいるからねぇ」と。
父のことである。父もまた私より遥かに大きな失敗をしでかしては、母に何とかしてもらうのが常だった。 母から見れば夫も息子も 同しレベルの出来の悪い子に見えたのだろう。
そんな頼母しく、明るく陽気だった母が無気カになり、何もせず、溜息ばかりついていた。やりきれなかった。家事と介護に忙殺されながら、 思った。一度でいい。一度でいいから昔の輝いていた母に会いたいと。

ある年の暮れ。雑者に入れる具の大根の下処理を世にも危なげな手つきでやっていた。 もう諦めていた。
子を親に 親を子にする 介護かな
そんな心境で包丁を動外していた。
いつの間にか母が横に立っていた。無言で私から包丁を取り上げると見事な包丁さばきで皮をむき、切断してゆく。フンフンと鼻歌交りに軽快そのものの動きで。それは紛れもなく、大好きだった、あの輝いていた母だった。奇跡は五分間だけ続き、二度来なかった。
何もせぬまま、病を得て母は死んだ。死の直前、しげしげと私を見て、ポツリと言った 「おまえのことだけが心配だ」と。負けたと心底思った。死の床で自分より息子の心配をするとは。幾つになっても親は親であった。


(静岡県・K.K/男性)