朗らかで芙蓉の花のように微笑む妻でした。 三年と二ヶ月の闘病生活だった。入院生活二六九日、十九回入退院を繰り返した。そのたびに妻は、抗癌剤に堪えた。治癒はしたものの、再発、最後の二十回の放射線にも堪え、完治したはずだったが、、しかし、半年余りで再発した。これが限界だった。昨年の五月、 自宅での生活、在宅ケアが始まった。

私の体を心配した娘が、介護休暇を取った直前、十二月に妻は逝ってしまった。六十九 歳の誕生日をやっと自宅で迎え、その後たった半月余りの命だった。看護・介護は、私にとっての生き甲斐だった。 介護になってからは、寝不足の日々でもあった。朝は八時前後に起きる。一日の始まりは、体を拭いてやることから始まる。寝汗を拭き取り、着替えをさせる。それもできるだけ前開きのものである。それから手を取り支えながら便所、洗面へ、歯磨き・うがいは、 食前・食後、病気の関係から必ずすることになっている。ベッドでの生活だったが、最初ごろは、自分で寝起きも出来ていた。十月に入ると、起き上がるとすぐ後ろに倒れるようになった。足が揃ってしまい歩行も困難になり、横に倒れるようにもなった。妻は「どうもだめだわ」と哀訴する。

私よりはるかに若かっただけに、何としても治してやりたかったから、東奔西走の思いで行動もした。岡山にも東京にも出かけ、ゲノム治療等についても聞いた。最後はワクチンにも頼った。望みを持って励ました。お互いに話せば、どうしてもマイナス意見にしかならない。ただ「頑張るんだ!」としか言いようがなかった。妻も私の気持ちがよく分かっている。だから、愚痴もこぼさず朗らかで、在宅ケアになってからも、最期まで生きる姿勢を失わなかった。時々やりきれなくなると、私が守って奇跡を起こしてやるからと何度も言った。しかし、その言葉に反比例するように、すぐに眠る日が続くようになった。 それまでは妻の意思もあり、朝、昼のけじめをつけるために、ベッドから離れ、食卓にもつかせ、ソファーにも座らせるようにしていたのだが…。自分の手でしっかり食べていた御飯類、水分も、手が震えて思うようにならなくなり、私が食べさせ飲ませても喉を通らなくなった。

退院後は、自分で歩けるまでになってはいたが、私はできるだけ支えてやることにしていた。深夜の便所は必ず両手を取り一歩一歩、歩かせ用を足し終わるまで、当然のことながら面倒を見ることにしていた。眠れないと、五分間隔の時さえあり、二人とも寝不足が続いた。

私がどんなに寝込んでいようと、何回でも起こすように指示もしてあった。「お父さん、 お父さん」と二度呼ぶと、大概私は起きた。気配で分かるときもあった。だが、しだいに私を呼ぶ声も、「ハイ」と返事をする声も小さくなっていった。台所での茶碗洗い、毎夜の風呂、洗面などにも一人の手助けでは到底できなくなり、すべてがリハビリだからと妻は意気込んでいたが、常に付き添っていないと転倒もする。私の不注意から転んだことも数回あった。幸い打ち所もよかったのか頭にも異常はなくほっとしたが、妻にはいつも謝っていたものだ。

今になって、時々想う。看護・介護のすべてが、本当にそれでよかったのかと。もっと もっと弱音も吐かせてやればよかったと涙もにじむ。ああすべきだった、こうすべきだったと悔いばかりである。哀しみは癒されるものだろうか。悪性リンパ腫が目から脳に転移、覚悟はしていたが、一緒になって四九年、金婚式目前の生涯だった。私より十歳も若いが故に、全く逆になればよかったと、これも何度思ったことか。

奇跡!どんなに心で願っていたことか。二人の意志的な努力があれば、きっと克服できると信じて。退院してからのリハビリの効果もあり、モーニングも食べに行った。買い物も車椅子を使って楽しんだ。「何とか…」という願いがいつも頭にあった。

思えば看護・介護は、夫婦の絆、愛情を一層強めた。愛・絆は、労りである。いろんな 世話をする中で私自身が鍛えられ、成長したとも言える。後日になってリハビリでお世話になっていた方から、妻と一緒に撮ってもらった写真を額入りでいただいた。帽子を被った妻の優しい笑顔を見て、私は救われた気持ちがした。その方の話によると、妻は、私に「感謝している」と言ったとのこと。私にも「お父さんのおかげだわ」と一回だけだったが、言ったことがあった。十九歳からの妻の労苦を思えば、「今頃、何で」と天国で笑っているかも知れないが、私は、四九年間支えてくれた生活に感謝と、また普段、十分に協力してやれなかったことに対しての謝罪しかないのである。 入院する度に私に「ごめんね」と、呟いた妻に…。


(島根県・K.M/男性)