もう、30年以上前のことである。 ひとり娘である私は、一人暮らしの母が心配で主人の転勤先の仙台に呼び寄せた。 気丈な母は即座には応じてはくれず、やっと80歳になり共に暮らすことになった。

共働き夫婦と三人の孫たちの家事全般を引き受け、日々が過ぎたころ、病院の検査で腎臓病と 診断され入院した。 入院後少しづつ変化があり、病院側から認知症の兆候あり夜の徘徊が見られるので、ベットに縛りつけていますと説明を受けた。
母の目は確かにうつろである。だが時の経過とともに以前の母の目にもどる。 「家に帰る」と聞くと母はおおきくうなずた。 家には日中誰も居ないし、大丈夫かとの問いに大きくうなずく母はまったく認知症には思えなかった。

家に戻った女は私達の生活を目で追いながら、穏やかに一日を過ごしていった。 私が帰宅すると小学生の娘が母の布団に潜りこみ眠っていて、母がやさしい目で見守っていたこともあった。 行政に助けを求めたが現在とちがって芳しい返答はなかった。おむつの世話も食事も思うようにならなかった。 母には不自由な思いをかけていることに心がいたんだが、再入院だけは頑なに拒んだ。

そんな日々が6カ月続き、もともと長い髪の母だったが随分伸びたことに気づき聞いてみた。「髪切ってみる」母はにっこりとうなづいたように思えた。
夜三人がかりで母を入浴させて髪を切った。
翌日の夕方、私が帰宅するのを待ちかねていたように母は亡くなった。

誰からもよくやったねと褒められた。特に親族から頑張ったねと。
胸が痛んだ。後悔ばかりである。 褒められるのは母である。母をほめてあげたい。 ひたすら娘の家族に迷惑をかけないように、娘の身体を案じ無理を言わず、 あなたは母として最期まで立派だった。
同じ思いで母親を亡くした知人から聞いた。 お母さんから遠くに見える線路に何回列車が通りすぎたら、あなたが帰宅するのかと毎日待っていたと。 母は毎日、団地の生活音や窓から差し込む日差しに時を感じ、誰かが玄関の鍵を開ける音をどれだけ待ち望んだか。

定年後、私も介護施設に職を得た。 もちろん見習いである。
いまも見習であるが、私の手助けを待っている人を探している。

 


(宮城県・K.A/女性)