川柳:祖母との別れ


祖母が障害者になって20年、それまで祖父が介護していたのだが、祖父が倒れ入院すると私達が介護することとなった。祖父が入院した時『やっと解放された』と言っていた。今まで祖母のお世話は祖父任せだったので、相当キツかったんだろうなと思った。 祖父の看病と祖母の介護という激烈な日々が過ぎ、安らかに祖父はなくなった。あんな事言いながらも祖母の事を最期まで案じていた。 それから祖母の長い介護の日々が始まった。朝のオムツ交換から始まり、食事、二時間ごとの排泄の世話、でまた食事、排泄、夜に最後オムツのセットをして1日の業務終了だった。 常にトイレ番の為誰か居なくてはならなかった。二時間の自由と母は言っていた。 そのうち介護の一旦を担っていた弟が結婚し家から出ていった。 父も仕事を引退し、本当に家族総出となった。 父と母が年に一回旅行に行くのだが、その時はまさに戦争だった。私が仕事を休んで1日の家事をこなしそれから祖母の食事、排泄、これだけで1日がくれていったのだが、唯一その時孫の私と二人きりになるのを祖母は喜んでくれているようだった。 普段は食事を残すのに私の用意した食事は本当に嬉しいそうに食べてくれて残す事はほとんどなかった。あの時に祖母がリクエストしてくるラーメンを祖母の前に並べると祖母は殊更喜んでくれた。 そのうちあれだけ嫌がっていたデイサービスに90過ぎでデビューをし、少し私達も自由が増えていった。結婚した弟も2ヶ月に一回美容室に連れて行ってくれたので祖母の楽しみが増えたのと同時に私達の自由も増えるんだなと思った。 年に一回私の誕生日に祖母はありがとうの言葉をしたためた手紙とおこづかいくれるのだが、その手紙には必ず『寂しいおばあちゃんより』で結んであった。これが私の今では私の宝ものとなっている。 私は父母より祖父祖母に本当に可愛がられた思い出がある。だからこそ今が恩返しなのかなぁと思っていた。 祖母はとにかく『ひろちゃん忘れないからね』『ありがとう』と言ってくれた。今思えばそれが活力源となっていた。あと『ひろちゃん』と私を呼ぶ人は祖父と祖母だけだったから地球上から言ってくれる人が居なくなったのはとても悲しい事だと思った。 いつの間にかあれだけタヌキのようなお腹が痩せていき、目が悪くなって好きな推理小説も私にねだる事もなくなっていき、足の痛みは相変わらずだったが、立ち上がらす時に足に力が入らなくなった。そのうち病院にかかる事が多くなり、大好きだったデイサービスのトイレで足を捻挫し、家で車椅子から自ら落ちて足を骨折し、生きる気力を無くしたようだった。その時はコロナの影響で入院も出来ない状況だったため、家で介護は歩けない分二人がかりになった為、私も介護休暇をとって祖母の介護に専念しようと思った矢先、祖母が入院できる事となった。 それが祖母が家に入れる最後となった。 介護のタクシーがやっていて祖母をさわった時祖母は震えていた。祖母も何かを感じていたんだろう。 それから祖母が居なくなり、部屋がガランとした。 病院もコロナの影響で祖母とほとんど面会できる事はなかった。唯一面会出来た時に祖母は『ひろちゃん迷惑かけてごめんね。早く家に帰りたい』と言っていた。だから私は家に帰って祖母の車椅子を磨いた。 それから一月祖母と会うこと叶わずテレビ電話で話をする事ぐらいだった。 祖母との別れは突然だった。 私が風邪をひいて1週間お見舞いに行けなくて今日から風邪治って行くという日に病院から祖母の状況が良くないと連絡が入り、病院に急いで行くと『今日がヤマです』と言われた。まるで私を待っていてくれたみたいに… 一昨日まではすごく元気だったのに…


(愛知県・H.I/男性)