悔いの残る介護


「おばあちゃん、ありがとうぐらい言ってよ」
便秘の義母のウンチを指で出すために一苦労した後、思わず出た言葉だった。
脳梗塞(こうそく)の後、胸椎(きょうつい)の骨折で入退院を繰り返した義母。施設入所は嫌がった。私は52歳のとき薬剤師として長年勤めた病院を辞め、義母の看護・介護に専念する決心をした。いまから21年前のことだ。
薬の管理、食事、入浴、病院の付き添い。何より大変だったのは夜中に起きてポータブルトイレを使う手助けをすること。体が冷えて眠れず、うつらうつらした頃にトイレに行きたいという合図のブザーが鳴る。寝不足と疲れが重なり、ブザーの音が恐怖に変わる。もっと寝かせてよ、と思いながら介助をする。優しい言葉は出ない。
今日はお風呂に入れてあげようと思うが、夕方になると疲れて、明日でもいいかなと思ってしまう。自分が情けなかった。精神的肉体的に疲労困憊(こんぱい)していた。
半年に一回ぐらい、言うに言われぬ怒りがこみあげて義母にあたってしまった。義母は何も言わないのでケンカにもならない。当時は精神的に追い詰められていた。自分を責め、義母に謝る。
その頃、夫は仕事で多忙を極めており、介護は私が抱え込んだ。介護保険がスタートする数年前のことだった。介護保険の入浴サービスや訪問看護を利用できれば、もっと気持ちが楽だったろう。
薬剤師として病院では患者さんの立場に立つ医療を模索して頑張り、懸命に生きてきた。介護でも頑張れると思っていたが、見事にはたんした。
ありがとうの一言が欲しかったのに、ありがとうと言わせない矛盾した行動をとる私。義母は19年前に亡くなった。
私としては悔いの残る介護だった。何でも頑張ればできたはずの私が、がんばれないことがあることを義母の介護を通じて知った。なにより自分の弱さ、醜さに気づき、受け入れる大きな体験だった。
その後、実母も介護が必要となったとき、主に介護を担ってくれた義妹や実妹の大変さを痛いほど理解することができた。だからこそ、きょうだいで相談し、助け合うことができたのである。


(徳島県・M.H/女性)