習慣的な道徳だけでは物足りない


習慣的な道徳も、社会生活を送っていくうえで無視することはできません。しかし、諸聖人の教えに基づく最高レベルの道徳に比べれば、その値打ちや効果は限定的であるといえるでしょう。

いくつか例を挙げてみましょう。「一万円の報酬をもらえる仕事をする場合、一万円分はきちんと働く」ことも、習慣的な道徳であるといえます。しかし、一万円の報酬を受け取るのであるから、最低でも一万円分働くのは当然のことです。また、「どこで人に見られているかわからないから、常に自らを律して、悪いことはしない」という考え方もあります。しかし、人が見ていても、見ていなくても、悪いことをしてはいけないことに変わりはありません。

「困っている人に対して物品や金銭を提供して助ける」ことも、もちろん自己犠牲をともなう素晴らしい行為ですが、マイナス面もあります。相手によっては、物品や金銭をもらったことによって生活が怠慢になり、人に頼る習慣が身についてしまう危険性もあるからです。また、寄付した側も、その行為が単なる自己満足に基づくものであるとか、これによって高慢になるとしたら、最終的には良い結果を生まないかもしれません。

習慣的な道徳を否定しているわけではありません。しかし、さらに高いレベルの道徳が必要なことも理解しておくべきでしょう。


出典:「三方よし」の人間学 廣池千九郎の教え105選