介護でえたもの


祖母が徘徊し、朝田んぼで半ば埋まった状態で見つかった。命に別状はなかったのだが、介護施設が見つかるまでの間、在宅で介護をする運びとなった。排泄介助、赤ん坊の場合と異なり、かつ田んぼに埋まった状態で見つかった理由であるから、体中どこそこを打ち付けており、おむつを替える際、「痛い痛い」と言い放し。両親と僕3人がかりで、排泄介助を行った。

2週間ほど経つと、介護施設が見つかり、入所することになった。時折面会に行くと、僕の名を呼び、「帰りたい」と涙ながらに訴えていた。僕自身、魔がさしたとしか思えないのだが、知り合いの福祉施設に声をかけられ、介護の世界に転職することになった。そこで接したどの利用者の方にも、それぞれの人生があった。普段、にこやかな表情をされている方にも、他の職員からバックグラウンドを聞くと、想像を絶する過去があったりすることもあった。福祉施設を2法人ほど渡り歩き、最後に特別養護老人ホームに勤めることになった。所詮、「看取り」を行う場所だ。

施設に預けた自分の祖母が亡くなり、葬儀を取り行った翌日、人手不足のため夜勤をすることになった。その晩、入所者の方が1人お亡くなりになった。娘さんが3人付き添われていた。息を引き取られた際、我々介護に携わる人間はつくづく他人であることを思い知らされた。若い職員が泣きじゃくっていた。
「戦争がなくても人は死ぬ死ぬんで」と一言声をかけた。「人が死ぬ」ということが分からない世代な人だなぁと思うとともに、それが若さであり、今の世の幸せと言う所かと思ったりもした。

世間では介護は大変と言うが、それは予算獲得の方便だと思う。
介護、それは刹那。今を生きると言うことを教えてくれるものだと思う。
いつの世も人はなくなる生きているものが物語を作り、亡くなられた方はあの世で笑っている。それがどんな笑い方かは知らないが。
介護の世界を離れた今そんな気がしてならない。


(大分県・Y.K/男性)