祝・ご満職


私が脳卒中で倒れてから家計を助けるために妻は銀行勤務を始めた。銀行勤務の時に妻には尊敬する上司岡田氏がいた。男性以上に仕事ができ、女優並みの容姿の女性課長だ、という彼女はお母さんの介護のために惜しまれて退職した。

その後、妻と賛同者が彼女を囲む会を作り定期的に茶話会を開いていることは知っていた。

妻の母親は、脊柱管狭窄症を発症し、治療の結果、杖歩行で歩かれるようになった。が、近くの薬科大の学生の下宿人にしていた2階建の大きな家に一人で住めなくなっていた。

脳卒中で歩行不全のためディサービスに通う私と我が家から往復三時間の品川区戸越銀座の実家まで通い介護をしていた。

岡田氏のお母さんの介護を知り、妻もいままで育ててくれた母親に尽くすのは当然と思っているようであった。

妻が定年退職にあたり、就職活動をしたが、60歳を過ぎた女性に就職先はなく母の高齢化の生涯を介護するには就職しなくてよかったと述懐した。

妻の定年退職にあたり、岡田氏からお礼が届いた。

祝・定年退職ではなく、祝・ご満職とあった。

満職とは初めて知った言葉であったが、そこでは在籍していた時の妻の仕事ぶりが課長に認められたことを示していた。

そして元・部下を思いやる上司の気持ちと、気配りがあったのだろう。

妻は私の介護と遠距離の母親の二重介護は無理と判断して、嫌がる母親を説得して隣駅の有料老人ホームに入所してもらった。

結婚のときに長兄が作ってくれ、長く住める様にと大金をかけてリフォームをして夫が残してくれた家を売られてしまうのではないか、との誤解が1番の理由であった。

妻は毎日のように施設を訪問して、話を聞くうちに、友人もでき、一緒に鮨を食べに行く様になった。

好事魔多し。義母が祖説で転び、大腿骨骨折を起こし、近くの森山病院に入院した。

手術は成功して、その後のリハビリテーションも順調で妻も安心していたが、施設と病院の環境が異なるために病院の職員や他の患者の折り合いが悪く、居心地が悪そうだ、と報告があり、最近、私のことも忘れるようで悲しいと言い出した。

義母は昔と同じ優しい顔をしていた。

自分が通所するデイサービスの認知症をもった姥たちは顔に険がある人々が多かったので、帰宅後に妻に「母さんはまだ大丈夫だと思う。」と言うと、「そこまで悪くなったら、もう大変よ」と絶句した。


(福井県・M.N/男性)