温かくしてくれる大切な思い出


その頃の父は 介護保険で言うところの「要介護4」の状態で、入浴のためにデイサービスを利用する時以外はほとんどが自宅のベッドの上の生活でした。
食事はひとりで出来ましたが、排泄はベッド脇ポータブルトイレを使うか、私がトイレまで伴い 介助するかでした。
既に母は旅立っており、実の娘である私と二人の生活です。隣の敷地は兄一家の住まいですが、兄達が多忙なのと 私自身が独身で居職が可能だった事、そしてやはり娘には物が言い易いのか 父の身の回りの事は自然に私がやる形になっていました。
父は現役の頃に比べれば、ぐっと我儘は減ってはいましたが やはり 時折 「もう~!」と苛立つ事が起こりました。そんな時の私の発散場所は車で10分も掛からない所にあるスポーツジム。「 今日は午後からジムだ!」という時は父のお昼御飯や服薬、トイレのケアを済ませ 私が出掛ける前のいつもの質問をします。
「お父さん、今夜 何 食べたい?」食いしん坊でテレビが大好きな父は卓上のポータブルテレビでグルメ番組を見ながら よく持論を展開していましたが、その冬のお気に入りは煮込み麺でした。
「 うーん、今夜は煮込みラーメンの醤油味!キャベツたっぶりでね。」献立を確認した私は、そそくさと出掛けました。
ジムに着き、お気に入りのダンスのレッスン。たった30分のクラスですが、その頃の私には大事な時間でした。レッスン後は習慣になっている携帯電話の確認です。父の目の前のテーブルにもすぐ手が届くように携帯電話があり、私との言わばホットライン、病院に例えればナースコールです。「 変わりは無いよね」と画面を見てドキッとしてしまいました。父からの不在着信が
何と3件!今まで父からの着信は あっても せいぜい1.2回です。狭心症の持病のある父に発作が起きたのか、
手元に置いてある 発作を鎮めるためのニトロの錠剤の封が開けられなかったか、或いはもっと心配な事か?急いで、電話を入れます。「電話に出られる状態だといいけど‥」心臓がバクバクなりかけた時、電話が繋がりました。
「 あ~、お父さんだけど 今夜のラーメンね、醤油って言ったけど やっぱり 味噌味がいいなって。」ほっとして、安心して、そしてガクッとしました。「 ラーメンの事だったの‥ 」正直、呆れる気持ちもありましたが 私がジムに出掛けた後ずっと 「醤油か味噌か、醤油か味噌か」とひとり考えを巡らせていたかと思うと 如何にも父らしくもあり、ほっとした気持ちも増してきて
笑えてきてしまいました。
その父が亡くなって、この夏で4年が経とうとしています。
今だに父が存命の内にあれをすれば良かったこう言った事も出来た、思ってしまう事があります。
それでも この「醤油か 味噌か」の出来事はくよくよしてしまいがちな私の気持ちを軽く、そして温かくしてくれる大切な思い出となっています。


(千葉県・K.H/女性)