孫、ひ孫へ 


『菅原道真の志を継いで勉強する』 今から千百年前、当時の右大臣の菅原道真 が左大臣の藤原時平の中傷で、九州の太宰府 へ左遷された。その時に道真の子供の1人も淡路島へ「一宮建立長官」としと左遷された。 お付きの鹿児島の島津家の子供も一緒に来た。
その後に道真が亡くなって、「一宮」より 先に「天神様」を建立して「神主」になった。その後の5百年で島津家とは姻戚関係になり、 島津家が神主を引き継いだ。今から3百年前 に、神主見習いの私の祖先が島津家の娘と結 婚して神主を引き継いだ。その後に徳川時代 に「天神様」の境内のお寺で寺子屋を開いた。
百30年前の明治6年に、日本に小学校が出 来た時に、祖先は改めて島津家の娘と結婚をして、最初の小学校を開いた。道真の文学の志と女官が持って来た「筑」という琴から芸術の心を継ぐために「志筑小学校」と命名し た。町名も「志筑町」となった。曲がりなりにも道真の血が流れている子孫は「学問、芸術の勉強をする志」を守らなければならない。 私の父は、戦前は小学校の先生であって、 祖先のことを引き継いでいて、いろいろの独学で勉強して教育に当たっていたのである。
先生だからピアノが弾けるが、文化の少な い田舎では町役場の要請で、ピアノ、ヴァイ オリン、木琴などの「独奏会」を開いていた。
教科の「図画」(美術)は、県視学(現教育 委員会)の「図画主任」を担当していた。 小学校の学芸会は各学年の指導をしていて、 その「シナリオ」を何冊か出版している。
女学校の先生以外に、町でただ1人の「英 語」が話せて、日本がアメリカと戦争を始めると、「アメリカのスパイ」などと言われた。
それらの他に、菅原道真が左遷されて短命 で人生を終わったことから「人間の命の大切さも教えた」と、かつての教え子から聞いた。 「日本が戦争を始めると「人殺しの戦争はいけない」と言っていたことを思い出している。
私は、道真の志を継いだ父に見習って、い ろいろ勉強したが、遠く及ばないのである。


(兵庫県・K.U/80代・男性)