私と父


父が苦手だった。
父から逃げたくて結婚したと言っても過言ではないくらいに。
だからひとりになった父が我が家にやってきて、介護する日が来た時に空を仰いだことを鮮明に覚えている。
やらなかった宿題が追いかけてきたように感じて。

人にも自分にも厳しい父と向かい合う日々は、じかに触れる自分が一番つらい気がしていたけれど、ある時父が泣いた。
「俺のおふくろも、こんなに辛かったんだなあ。おふくろが当たり散らしたのは、寂しかったんだなあ」。
そうか。父は孤独なのだ。
こんなに家族に囲まれても、思うようにならない体は自分だけが抱えているもの。
ここが痛い、動かない、と訴えるたびに、すぐ「じゃあ先生に診てもらおう」と最短の方法を最善に思う私。
だけど父は、ただ話を聞いてほしいのだ。

聞くと、何かをしていないと生きている意味がないと言う。
そう言えば、職業運転手だった父は休みの日にもいつだって父は動いていた。
使い勝手がいいように棚を作ったり、家族の自転車をぜんぶメンテナンスしたり、私が車で出かけると言えば早起きして洗車してエンジンルームを開けてチェックしてくれていた。

我が家に来てからは、畑を耕し、私の娘たちやその友達を招いて、野菜収穫を体験させてくれていた。
その父が、今まで家族にしてきたことのすべてが出来ないのだ。
ただ生きていることで精一杯なはずなのに、何か生きる目標がほしいと言う。
私はただ父がゴールの日まで、苦しむことなく心を荒げることなく過ごせたらと思っていたことを申し訳なく思った。

「お父さん、自分史を製本しようか」。
父の顔が輝いた。
父はパソコン操作を独学でマスターして、HPも立ち上げ自分史もワードに書き溜めていたのだ。
それを製本したら、家族や親戚、友達に配れる。
その日から、姉も駆けつけ、三人で製本作業が始まった。
父も椅子に座り、ページを折ったり綴じたりしながら、自分史に書かれていることを語る日々。
ふたりだと息苦しい部屋は姉が入るだけで明るく話題がはずんだ。
実は父は姉と暮らしたかった。
父が姉に笑うと、そのことが頭をかすめる。

ある時、父の足のケアをしている時、動かすたびに顔をしかめる父に「ごめんね」と言うと「あんたは、いい子やなあ」。
あれ、やだな。父の言葉がやけにやわらかい。
そして、褒められてこんなに嬉しい。
完璧主義で、一等賞でないと褒めてくれなかった父。
足りない点を指摘しては改善を求めていた人が、私のへたくそな介護にありがとうと言い、褒めてもくれる。
対して私は、この日々に何も成長していない。
「なぜ、わたしだったんだろう」とばかり空に向かってつぶやいていた。
言わなければ。言わなければ。

ある時、父は私が幼い頃、貧しい中、ひとつずつ子ども用品をそろえていった話を始めた。
あ、今だ。
「お父さん」
「ん」
「私たちを育ててくれてありがとう」
やっと言えた。
何十年も、心から言えてなかった「ありがとう」。
だけど父には何も響いてないようで、「そんなの、親が子どもを育てるのは当たり前や」。
さらりと会話は流れていった。

その一週間後、父は旅立った。
最期の言葉は、私が父の酸素チューブが鼻からずれていたので直そうとした時だった。
「自分で出来る」。
父らしい言葉だった。
介護の間は、重たかった心のまぶたが、見送った後、開かれた。
父が手入れ出来なくなった畑の草取りを手伝ってくれた義母や娘たち。
介護をサポートしてくれた姉、私の悩みや不安を電話で受け止めてくれ励ましてくれた遠方の妹。
同じように親を見送った友達からのエール。
父は孤独だったかもしれない。
でも、そう言われて「私だって寂しい」と心で叫んだ自分が、実はたくさんの人に支えられて助けられていたことに気づいたように、父もそうであると信じている。
見上げた空は軽やかな水色だった。
「ありがとう」を言う宿題をやっと提出できた。
満点だといいな。


(愛知県・Y.H/50代・女性)