「介護で気づいた家族の絆・キモチ体験談」入選作品のご紹介



(50代・女性)


父が苦手だった。
父から逃げたくて結婚したと言っても過言ではないくらいに。
だからひとりになった父が我が家にやってきて、介護する日が来た時に空を仰いだことを鮮明に覚えている。
やらなかった宿題が追いかけてきたように感じて。

人にも自分にも厳しい父と向かい合う日々は、じかに触れる自分が一番つらい気がしていたけれど、ある時父が泣いた。
「俺のおふくろも、こんなに辛かったんだなあ。おふくろが当たり散らしたのは、寂しかったんだなあ」。
そうか。父は孤独なのだ。
こんなに家族に囲まれても、思うようにならない体は自分だけが抱えているもの。
ここが痛い、動かない、と訴えるたびに、すぐ「じゃあ先生に診てもらおう」と最短の方法を最善に思う私。
だけど父は、ただ話を聞いてほしいのだ。

聞くと、何かをしていないと生きている意味がないと言う。
そう言えば、職業運転手だった父は休みの日にもいつだって父は動いていた。
使い勝手がいいように棚を作ったり、家族の自転車をぜんぶメンテナンスしたり、私が車で出かけると言えば早起きして洗車してエンジンルームを開けてチェックしてくれていた。

我が家に来てからは、畑を耕し、私の娘たちやその友達を招いて、野菜収穫を体験させてくれていた。
その父が、今まで家族にしてきたことのすべてが出来ないのだ。
ただ生きていることで精一杯なはずなのに、何か生きる目標がほしいと言う。
私はただ父がゴールの日まで、苦しむことなく心を荒げることなく過ごせたらと思っていたことを申し訳なく思った。

「お父さん、自分史を製本しようか」。
父の顔が輝いた。
父はパソコン操作を独学でマスターして、HPも立ち上げ自分史もワードに書き溜めていたのだ。
それを製本したら、家族や親戚、友達に配れる。
その日から、姉も駆けつけ、三人で製本作業が始まった。
父も椅子に座り、ページを折ったり綴じたりしながら、自分史に書かれていることを語る日々。
ふたりだと息苦しい部屋は姉が入るだけで明るく話題がはずんだ。
実は父は姉と暮らしたかった。
父が姉に笑うと、そのことが頭をかすめる。

ある時、父の足のケアをしている時、動かすたびに顔をしかめる父に「ごめんね」と言うと「あんたは、いい子やなあ」。
あれ、やだな。父の言葉がやけにやわらかい。
そして、褒められてこんなに嬉しい。
完璧主義で、一等賞でないと褒めてくれなかった父。
足りない点を指摘しては改善を求めていた人が、私のへたくそな介護にありがとうと言い、褒めてもくれる。
対して私は、この日々に何も成長していない。
「なぜ、わたしだったんだろう」とばかり空に向かってつぶやいていた。
言わなければ。言わなければ。

ある時、父は私が幼い頃、貧しい中、ひとつずつ子ども用品をそろえていった話を始めた。
あ、今だ。
「お父さん」
「ん」
「私たちを育ててくれてありがとう」
やっと言えた。
何十年も、心から言えてなかった「ありがとう」。
だけど父には何も響いてないようで、「そんなの、親が子どもを育てるのは当たり前や」。
さらりと会話は流れていった。

その一週間後、父は旅立った。
最期の言葉は、私が父の酸素チューブが鼻からずれていたので直そうとした時だった。
「自分で出来る」。
父らしい言葉だった。
介護の間は、重たかった心のまぶたが、見送った後、開かれた。
父が手入れ出来なくなった畑の草取りを手伝ってくれた義母や娘たち。
介護をサポートしてくれた姉、私の悩みや不安を電話で受け止めてくれ励ましてくれた遠方の妹。
同じように親を見送った友達からのエール。
父は孤独だったかもしれない。
でも、そう言われて「私だって寂しい」と心で叫んだ自分が、実はたくさんの人に支えられて助けられていたことに気づいたように、父もそうであると信じている。
見上げた空は軽やかな水色だった。
「ありがとう」を言う宿題をやっと提出できた。
満点だといいな。

(50代・女性)

後日「自分史」のお写真を送っていただきました。

 


実家の兄から「母の面倒をみてくれないか」と突然電話があった。義姉も亡くなり兄が母の介護をするのは大変だろうと思っていたが困惑した。
折しも自宅の建て替えのため設計が終わって着工の矢先であったため「ちょっと考えさせて」と言って返事を保留した。妻にこのことを話すと二つ返事で「面倒をみてあげましょうよ」と言ってくれた。
この一言で母の介護を引き受ける決心をした。工事の着工を一時中断して急きょバリアフリー仕様に設計変更をおこなった。
介護保険制度を勉強し、介護施設を数か所見学してケアワーカーに訪問医の紹介をしていただき受け入れの準備を進めた。母は認知症の症状があり私たち息子夫婦が誰かわからない状態で、不安を抱えながら妻と二人で「介護」という人生初の体験をすることとなった。

介護で大切なことは抱え込まないことと聞いていたので、できるだけ定期的に母の状況を兄弟や親戚に知らせる方法として、「おばあちゃん通信」と名付けた新聞を毎月発行し送ることにした。
妻は献身的に母の介護をしてくれたが骨折や肺炎が重なり一年余りで亡くなった。
新聞は13号で終了したが新聞で知らせることによって兄弟、親戚との絆が生まれ精神的に大きな支えとなった。
介護は辛いことばかりと思っていたが介護を通して母から大切なものを授かったような気がする。

(70代・男性)

後日お写真を送っていただきました。


(40代・男性)


(70代・女性)


(40代・男性)


(50代・女性)


主人の母が79歳で介護認定をもらい4年目。
同じ事を繰り返して言うのを聞く事が当たり前と思えるような日常になりました。

先の見えない在宅介護の日々。
時間がゆったり流れてます。
3人の子供の子育ても終了。
そんな中での楽しみはガーデニング。
綺麗な庭にするためは剪定や草むしり苗植えと心をくだいて来ました。
「お花綺麗や、なんて名前。」と義母。
テイータイムできるようにガーデニング用の椅子とテーブルを置くとコーヒーとお菓子を持って食べながら草むしりをする私の背に話しかけて来ます。
お花綺麗、お花綺麗と。

義母は私を褒めてくれている事に気づきました。
名前を知りたがる義母に答えます。
「キンリュウカって花で宿根草。」と。
もう少ししたら薔薇の時期が始まります。
白いツル薔薇はアイスバーグ。白雪姫という意味です。
ピエールドウロンサールという名前の薔薇はフランスの詩人の名前と。
10種の薔薇に対する毎年同じ質問の繰り返しと答え。
綺麗と喜んでくれて聞いてくれる義母がいる。
それだけで良いと思っています。

(50代・女性)


年老いた父は、認知症と診断された後も、ずっと自宅で暮らしていました。
毎日、同じ時間に寝起きし、同じ時間に同じルートで近くのスーパーへ行き、同じものを買って自炊していました。
成年後見人を申請する際に取った診断書には、認知症はかなり進行していると記してあり、周りの者はいつもハラハラしながら見守っていましたが、頑固な父は、誰が何を言っても聞く耳を持ちません。そのうち、会話も次第に怪しくなっていきました。

そんな父が歩行中に転倒し、大腿骨を骨折したのは、梅雨の最中の事でした。緊急搬送、緊急手術、通常病棟からリハビリ棟への転院と、本人の意思に関係なく、事態は進行していきました。父が足を折った時点で、自宅での自炊の継続はあり得ないと思いました。段差の多い古い戸建て、狭い階段、歩けなくなった父が、そこで自炊する状況は到底考えられません。私はリハビリ棟での療養中に、老人ホームを探すことにしました。

頑固な父は、リハビリ棟では常に疎まれてました。全く他人を寄せ付けず、医師の話も聞こうとしません。会話もままならず、すぐに施設を出ようとして、いつもスタッフの人を困らせていました。そんな事の続いたある日、施設から呼び出しがあり、精神病院への転院を勧められました。リハビリ棟のスタッフからは、「もう私達の手に負えません。お父さんを救える場所はここしかないと思います」と告げられました。父の部屋に向かうと、父は「うちに帰る」と呟きながら、自分の持ち物をベッドの上に並べていました。

私の見つけた老人ホームは、部屋の模様替えが自由という、とても大らかな施設でした。そのコンセプトを聞いた時、ふと何かが閃いたような気になり、その場で入居を決めました。私は手続きを済ませると、すぐに自宅に戻り、母の遺影と小さな仏壇、汚れたままのカーテンと使い古した小さな箪笥、部屋に敷きっぱなしだった絨毯を車に詰め込み、おそらく終の棲家になるであろう、その施設に向かいました。施設に着くと、私は出来る限り父の部屋の再現に取り掛かりました。母の遺影も父の布団から同じ角度で見えるように、敷きっぱなしだった絨毯の上に、使い古した小さな箪笥と仏壇を置き、父の入居の準備を整えました。

翌日、部屋に案内された父は、何が起こっているのか、案内されたこの場所はどこなのか、かなり戸惑っているようでした。もちろん、父の部屋のすべてが再現できるわけではありません。でも、何か少しでも部屋に馴染んでもらえないだろうかと、それだけを考えた末の作業でした。車いすに座ったままの父は、状況の整理が出来ないのか、身動きもせず、じっとしたままでした。

その日は諦めて引き揚げようかと、仏壇を開けてリンを鳴らし、母の遺影に合掌しました。すると父が何かを思い出したように車いすから立ち上がり、声を出してお経を唱え始めました。私は父のその姿を見て、これまで抱えてきた不安や疲労が安堵とともに一気に込み上げ、しばらくの間、涙を堪えながらその場に立ち竦んでいました。

父はその施設で落ち着きを取り戻し、一年近くを過ごした後、悪性リンパ腫を患い、静かに息を引き取りました。遺品を整理していると、見慣れない大学ノートが出てきました。そこには自分の名前と住所、私達家族と孫の名前と連絡先、そして「病院」「認知症」「お薬」など、普段使う言葉や語句がびっしりと、繰り返し繰り返し書き連ねてありました。最初の頁は正常だった頃の几帳面で達筆な楷書体、頁が進む毎にその文字は大きくなり、最後の方は子供の落書きのような大きな文字になっていました。

認知症であることを素直に受け入れ、自分に出来ることを可能な限り試みていたことや、自分の想いを言葉に出来なくなっていくもどかしさや葛藤、認知症がかなり進行していたにも関わらず、一度も徘徊することなく、最後まで自炊を続けることが出来た理由など、認知症を患ってからの、父の想いや行動が、一行一行を通して伝わってくるようでした。その大学ノートは、最後の最後まで家族を想い、病魔と闘ってくれた父の形見として、大切にとっておくことにしました。

(50代・男性)


「もう針の穴から世の中を見てるようなものてす」医師は真っ直ぐ私に言った。視野狭窄症。母の目はもうほとんど機能していなかった。
目が見えない世界。それは危険を知らせる信号さえわからない。真っ暗で、終わりのないトンネルにいるよう。身の回りのことが何ひとつできなくなった母。診察の日。「病院は嫌」と言う母に「ダメよ」と私は叱った。だけど私が手を引けば、母は後ずさり。すすむ。とまる。またすすむ。ぶつかる。転ぶ。またぶつかる。ココロも身体もそんな感じだった。

だけど母は寝言でこんなことを言った。
「ひとりでも大丈夫よ」おそらく一人で何もできないもどかしさから、こんな夢を見ていたのだろう。本当は一人で何でもやりたい。ヒトの手を煩わせたくない。そんな母の気持ちが垣間見れた。

だから私は決めた。手を引くんじゃない。手を貸すのでもない。手を広げようって。手を広げて待っていたらいつか母が飛び込んで来てくれそうな気がする。だから無理強いはさせない。母に押し付けることもやめよう。

そう決意したいま、母は見えないなりに自分で身の回りのことをやり始めた。私ももどかしさは握りこぶしに隠して、その様子を見つめる。母の気持ちがわかった今、親子仲はこれまで以上に良好である。

(60代・女性)


(70代・男性)


母は、パーキンソン病を患ってました。
発症して15年、少しずつ、徐々に要介護度があがっていきました。
派遣社員として、フルタイムで働いていた私は、介護ヘルパーさん、ショートステイをフル活用してなんとか生活を保っていました。
明るく、いつも気持ちが元気な母との生活は楽しかったですが、段々と仕事との両立が苦しくなってきました。

そんな中でも洗濯だけは、母が何時間もかかって、してくれてました。
私が仕事に行っている間に済ませてくれるので、転んだりしないかと正直心配で、もうやめてもらおうかと悩んでいたときに、洗濯機が故障して動かなくなりました。私があちこち触って、動くコツをつかみ、母に「ママじゃ動かせないから、もう洗濯はしなくていいよ。」と言ったときでした。
いつも明るく、弱音を吐かない母が、突然、わっと大声で泣き始めました。「洗濯したいの。」と。
そのとき、初めて気がつきました。母は、何も出来ない、役に立たない自分と思い、洗濯は、いつも私が「ありがとう!本当に助かるよー!」と言って感謝していたので、”人に必要とされたい、認められたい”、承認要求を選択することで満たしていたのでした。
なんでもしてあげることばかり、考えていた私は、母を親としては、接していなかった、子供に接するようにしてたことに気が付きました。
洗濯は、何時間もかかっていたと思います。私の役に立つために、私に喜んでもらうために、母は全力でがんばってくれていたのでした。
すぐに新しい洗濯機を購入すると、何事もなかったように、また洗濯をしてくれました。
年をとって、体が自由にならなくなったとしても、私には母が必要でした。ずっとそばにいて欲しかった。
それからは、簡単なこととかを一緒にしたり、母が必要だということをたくさん表現するようにしました。
とてもがんばってくれた母は、3年前に他界しましたが、いまでも洗濯は母の方が私より上だなと思います。

(40代・女性)


「脳梗塞の後遺症で、上手く話すことができない」電話の向こうから聞こえた、おじいちゃんの悲しそうな声。
「どうやったらおじいちゃん、前みたいに楽しくお話をすることができるかな?」その声を聞いて、真剣に考えた。
けれど、何も案は浮かばなかった。深く悩み、考えた末に「手紙でやり取りをすること」を思いついた。
手紙なら、自分の頭でゆっくり考えて、時間をかけて相手に自分の気持ちを伝えることができる。
電話だと、瞬時に相手の話を理解しないといけない。少し耳の遠くなったおじいちゃんには、とても辛いことだ。
「今度、手紙を書いて送るね」そう言って、電話を切った。手元には、一枚の白い便せんが。
でも、何から書き始めれば良いんだろう?ひとつも言葉が思い浮かばない。
「おじいちゃん、庭で野菜が摂れたら、また送ってね。食べるのを楽しみにしているよ」数分ほど考えた後、このような文章を綴った。
「お手紙ありがとう。大根とニンジンができたので、今度送ります」数日後、おじいちゃんから手紙が届いた。

今までわたしは、わたしのことしか考えていなかった。だけど、それをやめて、おじいちゃんのことを考えるようになったら、以前より明るく幸せな日々を過ごせるようになった。今後も、おじいちゃんと手紙のやり取りを続けていきたい。
次に手紙を書く時は、何を書こうかな。

(20代・女性)

 


↓コンテスト概要・詳細

【公募ガイド】2020年3月9日(月)発売に掲載!

応募期間:2020年4月1日~6月30日(消印有効)
発表:2020年 7月中旬 ホームページにて発表

 

公募ガイド

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