早朝昨日分の洗濯
お布団の上に居る祖母にふる里秋田のしょ
じゅ
十
着物の着方も寝ながらでしたがお作法も教えてくれました。
祖
結婚した夫の母も秋田出身の母でした。
秋田市内の祖母と男鹿と生
デパート
夫の母は九
祖母の時の体
その日の気分
お礼を言ってお支払いしてきました。
昔祖母にしてあげられなかった遊びや散歩や食べ物やと私も塾の仕
でも十五年の内には病気の先生から私ひとりでは無理だから施設
最後ま
とても穏やかな眠りでした。
夫はすぐ後にガンが見つかり手術できない肺とかリンパとかといろ
大好きなブルーマウンテンのコ
母も夫も思えば長い長い日々でしたが、でもきっと満足して旅立っ
私の母は転勤中一人で旅立ち本当に私は親不
母さんごめんなさい。父も疎開中この浜松で留守番生活
(静岡県・H.Y/女性)
]]>病がくれた家族の愛の絆。
(福井県・M.H/女性)
]]>大変痛ましい事件であり、遺族の方々の気持ちを思うと測りがたい痛ましさを感じる。
犯人はこの施設の元職員で、動機は「知的障害を持つ人達は、社会的に存在する理由がない」という事だった。
このニュースを知って私は、もしこの人が介護の現場が施設だけでなく、障害者の家庭でも介護することがあったなら、違う考えを持ったかもしれない、と感じた。
私は、以前訪問介護の仕事をしており、知的障害者を担当していたことがあった。
彼らは意思疎通はほとんどできなった。しかし、その様な人たちを抱える家庭は、家族の絆が厚かった。
担当した中で、進学校に通う中学生の娘と知的障害者の息子を持つ家庭があった。 私はその家では母親が帰宅するまでの「見守り」を担当していた。
母親が夕方帰宅してくる。
しかし、すでに帰宅していた娘は、母親に「おかえり」の一言もなくテレビを見ているか自分のことをしているのが日常だった。
そんなことも気にせず、母親が真っ先に声をかけるのは、決まって知的障害を持つ息子の方だった。
その息子はもう20歳だったが、両親ともまるで『赤ちゃん』をあやすように声をかけていた。
ある時、息子は笑顔で母親に対して「お前バカ」と繰り返していう時があった。
母親が何を言っても息子はこれしか言わなかった。
しかし、それでも母親はそんな息子が愛しくて、仕方がない様子だった。対照的な娘と息子を見ていると、私は彼が家族の結束を強める「守り神」のように見えた。
とはいえ訪問介護員はその家庭の中では介護の『中継ぎ』のような存在であり、その家族の本当の苦労を知ることはできない。
しかし、家族の絆だけで言えば、この家族が羨ましく思った。
なぜなら、私の両親は中学校の時に離婚していて、親の争いが絶えない家庭で育った。
もし私が知的障害を持って生まれたなら、両親は離婚しなかったかもしれないと 思ったからだ。
身体障害者を持つ家庭は気の毒なことも多かったが、どの家庭も暖かかった。
それは私が経験したことない「家庭のぬくもり」だった。私が訪問介護を通じて感じることは、「すべての生きとし生けるものは必ず必要とされる」ということ。
そして介護は、お年寄りであれ障害者であれ、家族の絆を深める「最良の行為」である、ということであった。
(東京都・K.I/男性)
]]>かくしゃくとして卒寿を迎えた母は長生きをするだろうと思った。
と同時に、介護のことが漠然とながらも頭を掠めた。
それからは、毎日新聞の女の気持ち欄に掲載される介護の投稿を注意深く読んで、万が一の介護の為に心の準備をしていった。
母が九十五歳の時に庭で転倒して、介添えなしでは歩けなくなった。
この日から介添と炊事と洗濯が私にのしかかったが、十数年の心の準備で少しも慌てることはなかった。
しかし、悪いことは次から次と起こるものだ。
母に認知の症状が出始めて下の世話もすることとなった。
朝起きて、母のおむつ替えをして食事の用意と洗濯を同時にする。
介護の合間を縫って私の用事と買い物を手早く済ませる。夕方にもう一度オムツ替えをする。
夕食をとらせて午後十時に母を寝かせてからの二時間が私の安らぎのひと時である。
そして朝までの時間が地獄の格闘である。「水を飲ませろ」「おむつを変えろ」などと夜中にが五度も六度も叩き起こす。
これが母を介護する私の一日である。こんな苦労をするのも、私の業と諦めてはみるものの不平不満の一つも口に出る。
このような生活が三年続いてリズムが生まれ、下の世話も悪夢のような夜中にも、心底から楽しんでいる自分に気づいた。
「これなら母さん、後十年の介護も自信があるよ」そう思った矢先に、「後三年…百まで…」そう言って母は九十七歳で旅立った。
六月二十日に母の一年忌が来る。
疲れて声を荒らげたり、夜中のぐずりに手を抓ったりと、私の介護は至らないところばかりの、出来損ないの息子でごめんなさい。
(鹿児島県・M.M/男性)
]]>三人の子供達の教育投資も終
そんな矢先だった。
なんと主人の喉に異変が生じた。体格に比例し
朗々とした澄んだ声がなんとしゃがれ声
実家の母も心配し、「一度先生に診察してもらった方がいいのでは
喉頭がんでないことを願い専門医へと。幸い良性のポリープだった
手術に臨むについて、先生に何度も質問し納得した上での手術。
声
何より安心材料として、信頼関係が構築されたことに裏打ちされ、
立ち会った息子と
茹でたうずらの卵を輪切りにしたかのようだった。うっすらと薄墨
その後、二年経つか経たないうち、何の因果か今度は肝臓がんが見
入院患者には知人がいて、しかも同部屋で同年齢、お互
それもそのはず、医師から「手術は成功!」と太鼓判を押されてい
歌を忘れたカナリヤにすっかり変心。
生業のことなどを一切口にし
そば打ちは開店以来主人がずっと打っていて私は一度も打ったこと
この一件がこの時災いに。
病院で教えを請うまでもなく、
思い余って実家の手
真夏の暑さに加え、不慣れも手伝い手打ちで四キロも打つともう悲
汗の中に体躯があるのかと錯覚すら覚えた。主人
幸い嫁さんが接客に当たってくれたことが、唯一の救いだった。
退院後は主人の心身を軽減させたく、出前はいつも一緒に出掛け、
妻の私がそばを打つので安心した訳ではないだろうが、何気なく主
三度目は皮膚がんと診断が下り、中指に二節目で切断。
今度は末端
ここにきて、何故、何故なんだろう。
最後の最後までガンで苦しま
世間でよく言うがんのデパートと錯覚
六十七歳の誕生日も過ぎ、四月下旬に入り仕事に忙殺される日々が
仕事を終えカウンター越しに見る主人の目が妙に黄ばんで
これは只事でない。取るものも取らず市の夜間診療所へハイヤーで
明日、朝一で病院に行くよう指示を受けた。
他市の大きな病院行き、諸々の検査の結果、胆管ガンと診断。
黄疸
今度の病院に入院に関しては、長期県外出張していた娘が市内に帰
主人の体力は日増に落ち、食欲も受けつけず当然のごとく痩せて別
美味しいと
病院に行くたびに「だんだんと体が壊れるのが分かる……。」と。
生命への執着は健在で、転院
一時帰宅の許可が出たおり、土産の駅の北側に分譲墓地を見つける
辛くて何度対応していい
あの時の対
相模灘を眼下に羨望し、故郷の小高い丘で静かに眠っている。
満足
(神奈川県・Y.O/女性)
]]>
だから、私は、登の口元まで運んだスプーンを自分の口に近付け、食べる振りをしながら返事をする。
「私はもうたくさんいただいたから、今度はお母さんが食べて。 」と。
だが、私はお腹いっぱいだから大丈夫だと何度伝えても、私の夫に介助を代わってもらって、母は頑なに食事を摂ろうせず、私や夫に食べるようにすすめるばかりだった。
「長く難病を患い、認知症の症状も進んでいた母は、この日、食堂に入ってきた私を見て ほぼ三年ぶりに娘である私を認識し、「あら。」と大な声を出して微笑み、目を潤ませた。
そして、 自分よりも先に、娘夫婦にご飯を食ベさせてあげたいと、私達を気遣ってくれたのだろう。
そんな母の気持ちを考えると、私の目にも涙が浮かんできた。
令和という新しい時代が来る直前に、容体が変化し、逝ってしまった母を想うと哀しみは癒えないし、もっと喜ばせてあげたかったのに何もできなかったという自分自身に対する無力感も消えることはない。
だが、もう二度とないと思っていた、母が私を思い出して笑顔を見せてくれた奇跡のような幸せな時間は、今を生きる私の大きな心の支えとなっている。
ありがとう、お母さん。
(静岡県・M.I/女性)
]]>
大きく、強く、優しかった母は、脳梗塞の後遺症で思うように生活できなくなってから、小さく、弱くなり、理不尽に怒るようになった。
あらぬ事を口にしては、間違いを正す私に悲しみと怒りをぶつけた。
病気と現実を受け入れられず、日に日に変わっていく母を見るたび私は「介護」の二文字におしつぶされそうになっていった。
夫も子供も手伝ってくれ、 又気遣ってくれたが、変わっていく母を止めようともがく辛さはどうにもならなかった。
そんなある日、臨床心理の立場からの「介護と傾聴」という勉強会がある。と知人から聞かされて二日間の講座を受けた。
そして、私は大きな間違いに気づいたのだ。
私は母に現実と常識を理解させようとしていたが、認知症になった人の心は、とても純粋で、自分にかけられる言葉より、態度と心を読みとっている、というのである。
変わっていく母を否定している私。母の病気と変化を受け入れられたと気づいた。
又、介護は恩の報じあいであり、子供を困らせる親 は、最後に子供に親孝行をさせてやろう、と、どこか魂の深いところで画策のかも、、、という、験談からのお話に、心にストンと落ちるものがありました 。
今の母を受け入れようと思い、今までの恩返しをしようと思えるようになってからの介護は、苦痛ではなくなりました。
母を喜ばせようと血糖値は気にせず、好きなあんドーナツを買って来たり、多少脚色が加わった母の昔話を注釈を入れずにうんと、聞いてあげることもできるようになった。
そして、講座を聞いて、一番勉強になった事は、「不安」をそのまま受け入れるという事です。
たとえば、「明日は兵隊が私を連れ去りにくる」と言い出したら、 「そんなことはない。 そんな訳の分からない事をどうして言うのか。」と、理解させ、母の不一を除こうとしていたのだけれど、内容はともかく、「怖い」とうけとるのが大切だという事です。「お母さんは兵隊がやってくると思っているんだね。それは怖いね」と聞いてあげた。
そうすると、母が、何かおかしな事を言うのでは、、、と、身構えなくなった。
なによりも、「それは怖いね」「それは幸」と気持ちだけ丸ごと受取ったら、もうそのことはどこかいってしまうのには驚いた。
それからも、母は小さくなってはいったが理不尽に怒ったり嘆いたりしなくなったので介護はとても楽になった。
思えば人間は、自分を理解して、受け入れてくれる人がいれば、それ以外の事はそんなに必要ではないのかもしれない。
母の介護の時に苦しんで、受けた講座で知った事、出会った方々に教えてもらったことが、今の私を支えてくれる事はとても多い。
臨床心理士さんが言ったように、母は、最期に私に自分を台として大切な事を教えてくれたのかも知れない、と思う。
迷い苦しい時は、何かを学ぶチャンスでもある。誰かの力を借りるのも大切だ。
前を向いて、相手を助ける気持ちで向かえば介護のなかで得られる事も沢山あるのだと、体験から思いました。
(大阪府・I.N/女性)
]]>一緒に暮らし始めた頃は何ら変わらない生活を送っていた祖母だっ
ところが、ある日突然独り言を言い出した。
よく聞いてみると、何で病気になったんやろ、
私達に聞かれると嫌だったのか、
そして、
中でもずっと忘れられずにいることがある。
それは薬の服用についてだ。
ある時、
錠剤だった。ついに祖母は薬の服用を拒みだしたのである。
そして、
頑なな中にもねぎらいや優しさが見え隠れする。
介護すること、
いたわってくれてありがとう、
実際に何かしら「
身内なのに、
唯一、
祖母が亡くなって二十年以上が経つ。
そしてもし、この先、
(福井県・K.S/女性)
]]>東京
市会議室までいらして
色々なご事情はうちの親も知らなか
私の母は教師で頑張っていてくれましたが、彼の母は一人暮らし
彼の兄達
三人の妻がお産み
不思議です。彼のご先祖は和歌山県の湯浅出身で名古屋
色々な方が色々おっしゃいますが、彼の母について何も本当のとこ
五黄のトラのO型
返事は「はい」ですよと言いました。
夜は鍵を開けて散歩にな
転勤生活から戻ってからの15年は、夫と同じ部屋に眠ることなく
私もある時ノイローゼになってしまい、医大にお世話になった時が
昔、全腹膜の手術
両家を守ってくれると思う子供が産めた
どなたに聞かされてもむずかしいお姑さんでしたが、一度もお叱り
母の言った言葉がいつも耳の奥にあったからです。
私から姑に色々
私の先祖は秋田出身で疎開もさしてもらっているか
絶
秋田をよく知ってい
でも最後まで秋田の佐
姑のご苦労の日々の
(静岡県・H.Y/女性)
]]>家族みんなが母は強い人だと思っていた。いつも笑顔で太陽のように、家族全部を照らしているような人だと考えていた。だがそれが大きな誇りだと言う事にみんなが気づいたのは、父の死の後の喪失感からか、母がうつの病になって床につくようになってからだった。今思えば強い母という思い込みは、母が家族全体の間で取っていた役割に過ぎず、一人の弱い人間であるはずの母に、偶像を押し付けていたに過ぎなかったと今では考える。そうした弱い当たり前の人間としての母に、介護を通して直面出来ていたことで、今になってみると大きな経験が得られたと思っている。
10年にわたるははの介護話の中で、ヘルパーさんなどのように来てもらって、積極的に生活支援を受けるようになったのは、母最晩年の頃だった。最初は介護保険制度の初期の頃に、うつ病で入院していた母が退院する際、訪問看護師さんに来てもらえるなら、という条件で先生から許しが出て介護の生活が始まった。はじめは健康保険を使って訪問看護師さんに来てもらい、介護保険に移行してからは病状の確認とリハビリのために訪問してもらう毎週の習慣は、母の死の年まで続いた。
そのように心の病を抱えた母を介護する際に、一暮大変だったのは母が一人になるのを極端に嫌がった事だった。買い物などで私が短時間外出するのはいいが、それも1時間位が限度で、好きな音楽を聴きにコンサートに出かけることはできなかった。うつ病といっても例えば自殺を試みるような心配は無かったが、いつでも私や誰かの姿を見ていないと不安な様子だった。子供の頃は私の方が頼りにしていた母が、うつ病になってからは立場が逆転して、子供に頼る弱い姿を見せるようになった。「あんただけ頼りなんだ」と母はよく言っていた。そうした母の変化に私だけでなく、妹や周囲の人も戸惑っていた。
しかし母の死後、ある程度時が経過してから振り返ってみると、うつ病で床についていた時の母を介護して初めて気づいた、と言う事だろうか。母親としての役割を別の、一人の悩み多き女性としての母の本当の姿にどうしてもっと早く気がつかなかったのか、と今では思う。父が死んだ後、母は「私はお釈迦様の拳の中で遊ばせて貰っていたのかもしれない」と言っていた。そうした一人の齢女性としての母に、介護を通してあの時少しでも寄り添う事が出来ていたなら、それでいいと心から思う。そして母性の限界を知る事を通して、一人の自立した人間として成長出来たとすれば意味はあったと思う。
(北海道・T.T/男性)
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