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介護 – 家族をつなぐきずな倶楽部 http://kazoku-kizuna.jp Mon, 23 Jan 2023 04:03:46 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.9.25 148687284 「みんなみんなに助けられて」 http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/25/%ef%bd%a2%e3%81%bf%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%bf%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%ab%e5%8a%a9%e3%81%91%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%a6%ef%bd%a3/ http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/25/%ef%bd%a2%e3%81%bf%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%bf%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%ab%e5%8a%a9%e3%81%91%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%a6%ef%bd%a3/#respond Mon, 25 Apr 2022 02:00:35 +0000 http://kazoku-kizuna.jp/?p=12002 介護をした日々は、実家の祖母が五年くらいでしたが中学から高校に通いながらでした。

母は教師でしたから私しか頼りない介護でした。

早朝昨日分の洗濯や祖母の食べるものを作っておく事と、お掃除等を皆済ませること、それから学校に急ぎますが昼食は、お隣のおばさんが見てくださるのが頼みの綱でした。

お布団の上に居る祖母にふる里秋田のしょっつる鍋や混ぜご飯等の作り方を聞いてノートに書きました。

じゅんさいとかいう食材などわからないことも多かったけれど、祖母が生きているうちに大事なことはいっぱい聞いて書き留めました。

六代続いた祖父の武家の時代からのこともぽつぽつ話してくれました。

着物の着方も寝ながらでしたがお作法も教えてくれました。

母は医師から名前は呼ばないであげてくださいと注意された最後の数日は天国とこの世を行ったり来たりの日々でした。

 

結婚した夫の母も秋田出身の母でした。

秋田市内の祖母と男鹿と生まれたところは違いますが、祖母と暮らした日々から学んだことから、食べ物やお話も喜んでくれそうなことができました。

デパートにハタハタ等が出ると涙を浮かべて喜んでくれました。

夫の母は九十歳もすぎ、私達が長い転勤を終えて帰ってくるまで一人で頑張ってくれてましたから、ほっとしてベッド生活になって十五年くらいでした。

祖母の時の体験がとても役に立って、朝一番に赤いものを見たり、部屋のカーテンやお布団、衣類もピンク系、夜はベッドの母と私の手首を毛糸で編んだ腰紐で結んで、母が動けばすぐ分かるように。

その日の気分で深夜でもいつでも腰をあげて外出するから、それに欲しいと思ったもの、食べたいものは全くお金を持たずに立ち寄って食べたり、お金も払わず買うから、必ず集金の方が後ろからついてこられるのです。

お礼を言ってお支払いしてきました。

昔祖母にしてあげられなかった遊びや散歩や食べ物やと私も塾の仕事をしながらでしたから時間にも本当はてんてこまいながら、でも夫は仕事の都合もあって不在が多かったから精一杯やる毎日でした

でも十五年の内には病気の先生から私ひとりでは無理だから施設へと何度も勧められましたが、母が嫌と先生に言うのです。

最後まで家で食事も朝食の後、昼食は二口くらい食べてくれましたが、もういいわと言って旅立ちました。

とても穏やかな眠りでした。

 

夫はすぐ後にガンが見つかり手術できない肺とかリンパとかといろいろで五年程入退院がありました。

大好きなブルーマウンテンのコーヒーを朝立てて病院に運び続けました。末期の水ではなく末期のコーヒーを私の唇であげました。嬉しそうな顔に感じました。

母も夫も思えば長い長い日々でしたが、でもきっと満足して旅立ってくれたと信じます。

私の母は転勤中一人で旅立ち本当に私は親不孝者です。

母さんごめんなさい。父も疎開中この浜松で留守番生活のままでした。

 


(静岡県・H.Y/女性)

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「病」がくれた家族愛 http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/22/%ef%bd%a2%e7%97%85%ef%bd%a3%e3%81%8c%e3%81%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e5%ae%b6%e6%97%8f%e6%84%9b/ http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/22/%ef%bd%a2%e7%97%85%ef%bd%a3%e3%81%8c%e3%81%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e5%ae%b6%e6%97%8f%e6%84%9b/#respond Fri, 22 Apr 2022 02:00:34 +0000 http://kazoku-kizuna.jp/?p=11999 昨年の晩秋、それは始まった。
私は畳の上で転倒してしまった。少し足に痛みはあったけど、元気に自信はあったので明日になればと思い眠りについた。
翌朝、目覚めたらビリッ!と痛みが走った。
夫婦二人暮らしの私はもしかして入院生活になった時のことを考えて二日間で痛む足に耐えながら、残った夫のことを考えて家事をこなす。 翌日、夫が背中の痛みを訴えたので近くに住む娘夫婦に病院へ連れて行ってもらった。
なんと動脈解離、あと二時間遅れていたら命危なかったと言われ、それから夫は一滴の水も口にすることができず、四十五日間の入院生活です。
夫が入院して二日後、私は別の病院で大腿骨骨折で手術を受けた。最低二週間から一ヶ月は入院が必要と言われてしまった。でも、夫のことが心配で1週間過ぎて、抜糸をしたので無理矢理退院してリハビリをすることもなく、夫の病院へ。
生まれて初めての術後の痛みと心痛で心が折れそうになった。そんな時、娘夫婦と孫は常に私と夫に寄り添って、暖かい声援と介護に私はどれほど元気をもらったことでしょう。
「病」が老いた私に家族の強い絆で結んでくれました。

病がくれた家族の愛の絆。


(福井県・M.H/女性)

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訪問介護できずいた家族の絆 http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/18/%e8%a8%aa%e5%95%8f%e4%bb%8b%e8%ad%b7%e3%81%a7%e3%81%8d%e3%81%9a%e3%81%84%e3%81%9f%e5%ae%b6%e6%97%8f%e3%81%ae%e7%b5%86/ http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/18/%e8%a8%aa%e5%95%8f%e4%bb%8b%e8%ad%b7%e3%81%a7%e3%81%8d%e3%81%9a%e3%81%84%e3%81%9f%e5%ae%b6%e6%97%8f%e3%81%ae%e7%b5%86/#respond Mon, 18 Apr 2022 02:00:05 +0000 http://kazoku-kizuna.jp/?p=11944 『津久井やまゆり園』で大量殺人事件が起こった。

大変痛ましい事件であり、遺族の方々の気持ちを思うと測りがたい痛ましさを感じる。

犯人はこの施設の元職員で、動機は「知的障害を持つ人達は、社会的に存在する理由がない」という事だった。

このニュースを知って私は、もしこの人が介護の現場が施設だけでなく、障害者の家庭でも介護することがあったなら、違う考えを持ったかもしれない、と感じた。

 

私は、以前訪問介護の仕事をしており、知的障害者を担当していたことがあった。

彼らは意思疎通はほとんどできなった。しかし、その様な人たちを抱える家庭は、家族の絆が厚かった。

担当した中で、進学校に通う中学生の娘と知的障害者の息子を持つ家庭があった。 私はその家では母親が帰宅するまでの「見守り」を担当していた。

 

母親が夕方帰宅してくる。

しかし、すでに帰宅していた娘は、母親に「おかえり」の一言もなくテレビを見ているか自分のことをしているのが日常だった。

そんなことも気にせず、母親が真っ先に声をかけるのは、決まって知的障害を持つ息子の方だった。

その息子はもう20歳だったが、両親ともまるで『赤ちゃん』をあやすように声をかけていた。

ある時、息子は笑顔で母親に対して「お前バカ」と繰り返していう時があった。

母親が何を言っても息子はこれしか言わなかった。

しかし、それでも母親はそんな息子が愛しくて、仕方がない様子だった。対照的な娘と息子を見ていると、私は彼が家族の結束を強める「守り神」のように見えた。

 

とはいえ訪問介護員はその家庭の中では介護の『中継ぎ』のような存在であり、その家族の本当の苦労を知ることはできない。

しかし、家族の絆だけで言えば、この家族が羨ましく思った。

なぜなら、私の両親は中学校の時に離婚していて、親の争いが絶えない家庭で育った。

もし私が知的障害を持って生まれたなら、両親は離婚しなかったかもしれないと 思ったからだ。

 

身体障害者を持つ家庭は気の毒なことも多かったが、どの家庭も暖かかった。

それは私が経験したことない「家庭のぬくもり」だった。私が訪問介護を通じて感じることは、「すべての生きとし生けるものは必ず必要とされる」ということ

そして介護は、お年寄りであれ障害者であれ、家族の絆を深める「最良の行為」である、ということであった。


(東京都・K.I/男性)

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http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/18/%e8%a8%aa%e5%95%8f%e4%bb%8b%e8%ad%b7%e3%81%a7%e3%81%8d%e3%81%9a%e3%81%84%e3%81%9f%e5%ae%b6%e6%97%8f%e3%81%ae%e7%b5%86/feed/ 0 11944
母と私の格闘の日々 http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/15/%e6%af%8d%e3%81%a8%e7%a7%81%e3%81%ae%e6%a0%bc%e9%97%98%e3%81%ae%e6%97%a5%e3%80%85/ http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/15/%e6%af%8d%e3%81%a8%e7%a7%81%e3%81%ae%e6%a0%bc%e9%97%98%e3%81%ae%e6%97%a5%e3%80%85/#respond Fri, 15 Apr 2022 02:00:44 +0000 http://kazoku-kizuna.jp/?p=11941 父が逝き母との二人暮らしが始まったのは私が三十歳の時だった。

かくしゃくとして卒寿を迎えた母は長生きをするだろうと思った。

と同時に、介護のことが漠然とながらも頭を掠めた。

それからは、毎日新聞の女の気持ち欄に掲載される介護の投稿を注意深く読んで、万が一の介護の為に心の準備をしていった。

母が九十五歳の時に庭で転倒して、介添えなしでは歩けなくなった。

この日から介添と炊事と洗濯が私にのしかかったが、十数年の心の準備で少しも慌てることはなかった。

しかし、悪いことは次から次と起こるものだ。

母に認知の症状が出始めて下の世話もすることとなった。

朝起きて、母のおむつ替えをして食事の用意と洗濯を同時にする。

介護の合間を縫って私の用事と買い物を手早く済ませる。夕方にもう一度オムツ替えをする。

夕食をとらせて午後十時に母を寝かせてからの二時間が私の安らぎのひと時である。

そして朝までの時間が地獄の格闘である。「水を飲ませろ」「おむつを変えろ」などと夜中にが五度も六度も叩き起こす。

これが母を介護する私の一日である。こんな苦労をするのも、私の業と諦めてはみるものの不平不満の一つも口に出る。

このような生活が三年続いてリズムが生まれ、下の世話も悪夢のような夜中にも、心底から楽しんでいる自分に気づいた。

「これなら母さん、後十年の介護も自信があるよ」そう思った矢先に、「後三年…百まで…」そう言って母は九十七歳で旅立った。

六月二十日に母の一年忌が来る。

疲れて声を荒らげたり、夜中のぐずりに手を抓ったりと、私の介護は至らないところばかりの、出来損ないの息子でごめんなさい。


(鹿児島県・M.M/男性)

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唄を忘れたカナリア http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/11/%e5%94%84%e3%82%92%e5%bf%98%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%82%ab%e3%83%8a%e3%83%aa%e3%82%a2/ http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/11/%e5%94%84%e3%82%92%e5%bf%98%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%82%ab%e3%83%8a%e3%83%aa%e3%82%a2/#respond Mon, 11 Apr 2022 02:00:39 +0000 http://kazoku-kizuna.jp/?p=11938 平成九年四月、主人は還暦を迎えた。

三人の子供達の教育投資も終わり、やれやれと一息吐く。これから二人の時間を積み重ね、人生を大切に過ごしたいと願いながら、毎日の生活に明け暮れていた。

 

そんな矢先だった。

なんと主人の喉に異変が生じた。体格に比例しての声量・声質も良く結婚式等で詩吟を披露すると好評を博し、本人も悦に入る事しばしば。

朗々とした澄んだ声がなんとしゃがれ声に変わっている。

実家の母も心配し、「一度先生に診察してもらった方がいいのでは!?」と進言。

喉頭がんでないことを願い専門医へと。幸い良性のポリープだった。安堵の胸を何度なで下ろしたことだろう———。が、極楽蜻蛉(ごくらくとんぼ)の主人は至って、ケロリとしていた。

 

手術に臨むについて、先生に何度も質問し納得した上での手術。

帯を傷つけ声を失った人が周りにいたので慎重になっていた。

何より安心材料として、信頼関係が構築されたことに裏打ちされ、心を委ねられた言の葉、「自分の父親を手術する心算で臨みますからどうぞ安心してください…。」の一言だった。

立ち会った息子と切除されたポリープの断面を見ると摩訶不思議。

茹でたうずらの卵を輪切りにしたかのようだった。うっすらと薄墨色をした円形の輪郭が妙に印象に残った。「信ずるものは治癒する!」と先生の台詞通り従来の声を取り戻せた。

 

その後、二年経つか経たないうち、何の因果か今度は肝臓がんが見つかった。

入院患者には知人がいて、しかも同部屋で同年齢、お互いにまだ若いし体力もあり意気投合。手術など何の其の、二人して入院生活をエンジョイしている感すらした。

それもそのはず、医師から「手術は成功!」と太鼓判を押されていたから。嬉嬉とした姿を見て私だってもちろん嬉しい。が、なんとも言えない複雑な感情が湧出した。

 

歌を忘れたカナリヤにすっかり変心。

生業のことなどを一切口にしなかったのだ。言えなかったのか、はたまた言わなかったのか、意図が読めず解らず終いとなった。

 

そば打ちは開店以来主人がずっと打っていて私は一度も打ったことはない。

この一件がこの時災いに。

病院で教えを請うまでもなく、又、教えられても、実地でなければ大きなカッターがネックとなり、指でも切断したら取り返しがつかない……。

思い余って実家の手打ち製麺機を借りてきた。

真夏の暑さに加え、不慣れも手伝い手打ちで四キロも打つともう悲鳴をあげる始末。

汗の中に体躯があるのかと錯覚すら覚えた。主人も好きで病気になっている訳ではない。ここが正念場とアクセルを入れ直し、歯を食いしばり、鞭を打ちつつ頑張った。

幸い嫁さんが接客に当たってくれたことが、唯一の救いだった。

退院後は主人の心身を軽減させたく、出前はいつも一緒に出掛け、鞄持ちならぬ岡持ちで随行。この間、そば屋の女将として製麺機の習得に励み、マスターした。

妻の私がそばを打つので安心した訳ではないだろうが、何気なく主人の右手中指を見ると腫れて爪が浮いていた。「どうしたの、その指!」「わかんないよ、ばい菌でも入ったのかな?」と呑気な会話に打ち砕かれた。

 

三度目は皮膚がんと診断が下り、中指に二節目で切断。

今度は末端部を切断したので、相当きつかったと溢したが、ユーモアもあった。誰かが「渡世人みたいだね」と言ったら、「いや!そちらの人は指が違うよ」と言いながら小指を立てニンマリしていた姿が昨日のように彷彿と浮かぶ。

ここにきて、何故、何故なんだろう。

最後の最後までガンで苦しまなくてはならないのだろう!

世間でよく言うがんのデパートと錯覚するくらいがんに見舞われてしまう。

苛立ちと矛先を誰に向ける術もなく、いつも病院から自宅へ直行。切ない———。

 

六十七歳の誕生日も過ぎ、四月下旬に入り仕事に忙殺される日々が続いた。

仕事を終えカウンター越しに見る主人の目が妙に黄ばんでいた。「目が黄色いけど体躯怠くないの!?」「蛍光管が黄色っぽいでそう見えるのだろう!」と人事のように平然としていた。

これは只事でない。取るものも取らず市の夜間診療所へハイヤーで駆け込んだ。

明日、朝一で病院に行くよう指示を受けた。

他市の大きな病院行き、諸々の検査の結果、胆管ガンと診断。

黄疸も相当きつく表出し、主人もそれとなく生命への危機を悟り始めていた。死への不安と恐怖を———。

 

今度の病院に入院に関しては、長期県外出張していた娘が市内に帰っていたので、一日も休まずに私の休憩時間に合わせ病院まで便乗し主人を見舞い、また、疲弊しきった私の心身を励まし助けてくれた。

主人の体力は日増に落ち、食欲も受けつけず当然のごとく痩せて別人の様を呈した。が、昼食には「そうめんが食べたい」と言い出し病院の許可を得て、家からセットし運んだ。

美味しいと言って食べてくれるのは嬉しいが、何ら栄養の足しにはならない。

病院に行くたびに「だんだんと体が壊れるのが分かる……。」と。

病名もステージ状況も把握していた。

生命への執着は健在で、転院を希望したが、入院当初から余命三ヶ月と宣告され最早体力的に無理だと説諭。

 

一時帰宅の許可が出たおり、土産の駅の北側に分譲墓地を見つけると「終の住処はあそこがいい!」と断言。

辛くて何度対応していいかわからず、聞こえないふりをするのが精一杯だった。

あの時の対応の良し悪しを月日が流れてもしばらく引きずった。主人は納得して私に最後を託したのだろう———。

 

相模灘を眼下に羨望し、故郷の小高い丘で静かに眠っている。

満足な介護ができたか否かは不明だが、遺言を汲み取れたことで全てが許容され、安泰な日々を享受している。


(神奈川県・Y.O/女性)

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「母心」 http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/08/%e3%80%8c%e6%af%8d%e5%bf%83%e3%80%8d/ http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/08/%e3%80%8c%e6%af%8d%e5%bf%83%e3%80%8d/#respond Fri, 08 Apr 2022 02:00:55 +0000 http://kazoku-kizuna.jp/?p=11897 「食べて。お母さんはいいから。 夕飯の食事介助をする私に母が言う。母がお世話になっている介護施設の食堂で。

 

だから、私は、登の口元まで運んだスプーンを自分の口に近付け、食べる振りをしながら返事をする。

「私はもうたくさんいただいたから、今度はお母さんが食べて。 」と。

 

だが、私はお腹いっぱいだから大丈夫だと何度伝えても、私の夫に介助を代わってもらって、母は頑なに食事を摂ろうせず、私や夫に食べるようにすすめるばかりだった。

 

「長く難病を患い、認知症の症状も進んでいた母は、この日、食堂に入ってきた私を見て ほぼ三年ぶりに娘である私を認識し、「あら。」と大な声を出して微笑み、目を潤ませた。

そして、 自分よりも先に、娘夫婦にご飯を食ベさせてあげたいと、私達を気遣ってくれたのだろう。

そんな母の気持ちを考えると、私の目にも涙が浮かんできた。

 

令和という新しい時代が来る直前に、容体が変化し、逝ってしまった母を想うと哀しみは癒えないし、もっと喜ばせてあげたかったのに何もできなかったという自分自身に対する無力感も消えることはない。

 

だが、もう二度とないと思っていた、母が私を思い出して笑顔を見せてくれた奇跡のような幸せな時間は、今を生きる私の大きな心の支えとなっている。

 

ありがとう、お母さん。

 


(静岡県・M.I/女性)

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http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/08/%e3%80%8c%e6%af%8d%e5%bf%83%e3%80%8d/feed/ 0 11897
受け入れること http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/04/%e5%8f%97%e3%81%91%e5%85%a5%e3%82%8c%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8/ http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/04/%e5%8f%97%e3%81%91%e5%85%a5%e3%82%8c%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8/#respond Mon, 04 Apr 2022 02:00:58 +0000 http://kazoku-kizuna.jp/?p=11872 母を見送って7年になる。

 

大きく、強く、優しかった母は、脳梗塞の後遺症で思うように生活できなくなってから、小さく、弱くなり、理不尽に怒るようになった。

あらぬ事を口にしては、間違いを正す私に悲しみと怒りをぶつけた。

病気と現実を受け入れられず、日に日に変わっていく母を見るたび私は「介護」の二文字におしつぶされそうになっていった。

 

夫も子供も手伝ってくれ、 又気遣ってくれたが、変わっていく母を止めようともがく辛さはどうにもならなかった。

そんなある日、臨床心理の立場からの「介護と傾聴」という勉強会がある。と知人から聞かされて二日間の講座を受けた。

そして、私は大きな間違いに気づいたのだ。

私は母に現実と常識を理解させようとしていたが、認知症になった人の心は、とても純粋で、自分にかけられる言葉より、態度と心を読みとっている、というのである。

変わっていく母を否定している私。母の病気と変化を受け入れられたと気づいた。

又、介護は恩の報じあいであり、子供を困らせる親 は、最後に子供に親孝行をさせてやろう、と、どこか魂の深いところで画策のかも、、、という、験談からのお話に、心にストンと落ちるものがありました 。

今の母を受け入れようと思い、今までの恩返しをしようと思えるようになってからの介護は、苦痛ではなくなりました。

母を喜ばせようと血糖値は気にせず、好きなあんドーナツを買って来たり、多少脚色が加わった母の昔話を注釈を入れずにうんと、聞いてあげることもできるようになった。

そして、講座を聞いて、一番勉強になった事は、「不安」をそのまま受け入れるという事です。

たとえば、「明日は兵隊が私を連れ去りにくる」と言い出したら、 「そんなことはない。 そんな訳の分からない事をどうして言うのか。」と、理解させ、母の不一を除こうとしていたのだけれど、内容はともかく、「怖い」とうけとるのが大切だという事です。「お母さんは兵隊がやってくると思っているんだね。それは怖いね」と聞いてあげた。

そうすると、母が、何かおかしな事を言うのでは、、、と、身構えなくなった。

なによりも、「それは怖いね」「それは幸」と気持ちだけ丸ごと受取ったら、もうそのことはどこかいってしまうのには驚いた。

それからも、母は小さくなってはいったが理不尽に怒ったり嘆いたりしなくなったので介護はとても楽になった。

思えば人間は、自分を理解して、受け入れてくれる人がいれば、それ以外の事はそんなに必要ではないのかもしれない。

母の介護の時に苦しんで、受けた講座で知った事、出会った方々に教えてもらったことが、今の私を支えてくれる事はとても多い。

臨床心理士さんが言ったように、母は、最期に私に自分を台として大切な事を教えてくれたのかも知れない、と思う。

迷い苦しい時は、何かを学ぶチャンスでもある。誰かの力を借りるのも大切だ。

前を向いて、相手を助ける気持ちで向かえば介護のなかで得られる事も沢山あるのだと、体験から思いました。


(大阪府・I.N/女性)

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祖母と私の思い http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/01/%e7%a5%96%e6%af%8d%e3%81%a8%e7%a7%81%e3%81%ae%e6%80%9d%e3%81%84/ http://kazoku-kizuna.jp/2022/04/01/%e7%a5%96%e6%af%8d%e3%81%a8%e7%a7%81%e3%81%ae%e6%80%9d%e3%81%84/#respond Fri, 01 Apr 2022 02:00:43 +0000 http://kazoku-kizuna.jp/?p=11864 介護の難しさ、大変さを実感したのは今は亡き祖母を家で一年程看た経験からである。
私達とは離れて暮らしていた祖母が病気をし手術を受けた。
病気は完治し退院となり、それまで通りの生活がしたいと退院後すぐに祖母は自宅へ戻っていった。
病気になったショックから自宅に戻ってほどなく祖母は心を病んでしまった。
生活面のことはできていたけれど、外出が減り人とも会わなくなって家に閉じこもりがちになった。
嫌がる祖母を説得し私達と同居することになった。そこから私たち家族の世話が始まった。

一緒に暮らし始めた頃は何ら変わらない生活を送っていた祖母だった。

ところが、ある日突然独り言を言い出した。

よく聞いてみると、何で病気になったんやろ、なんでこんなことになってしもたんやろ。と病気になったことを仕切りに悔しがる言葉を発していた。

私達に聞かれると嫌だったのか、私たちの足音が近づくとピタッと口を紡ぐことに、おばあちゃん子だった私は日ごとに変わっていく祖母の言動に戸惑いを感じずにはいられなかった。

 

そして、1人でこなせていた日常生活は日を追うごとにできなくなっていった。

中でもずっと忘れられずにいることがある。

それは薬の服用についてだ。昼食の際に1錠ずつ服用し何日かは自身で飲んでいた。

ある時、祖母の食べ終えたお膳を下げようとするとお盆に丸い形のものが見えた。

錠剤だった。ついに祖母は薬の服用を拒みだしたのである。

薬については飲ませないわけにはいかないのでそばについて飲むように促す。

これには祖母も抵抗し飲むの飲まないので毎回手こずった。

この頃になると祖母の言動は家族も驚くほど荒っぽくなった。

薬を投げ飛ばしたり隠したりと難儀なことをした。

こちら側も飲ませようと必死なので言うことを聞いてくれないとつい声を荒げてしまう。

薬の丸い形状がわかると祖母は拒否するので母と私とで考えたのが薬を粉々に砕くことだった。

小さくて割りにくいので金槌を持ち出して台所で割る。根気のいる手間仕事だ。

割った薬をおかゆに混ぜ込んで祖母の元へ。

頭がしっかりしている祖母はおかゆに白い粉々を発見するや、お粥には手をつけずブツブツと何やら呟いている。

台所では母と私がため息をつく。とんとんかんかんと薬を割る金槌の音だけが虚しく響く。

実の娘である母もこれにはかなり苦労していた。

そして、祖母の世話をしたことで知らなかった祖母の一面もうかがえた。

聡明で何事にもどっしりと構え、少々のことではうろたえたりしない人だと思っていた。

病気をしたことで気弱になり意欲も失い心を病んでいった。

荒っぽく攻撃的になったかと思うと、でも一方で、孫である私に時折見せるおばあちゃんの顔も覗きみる。

私が出かけようとすると気を付けて行きなさいと言ったり、夜遅くまで起きていると早く寝なさいと気にかけてくれたりするのだ。

頑なな中にもねぎらいや優しさが見え隠れする。祖母なりの気の遣いのようだったのかもしれない。

介護すること、とりわけ肉親や身内の介護に至っては、介護する、側される側の両方が労いや思いやりの言葉を求めてはいけないと思う。

いたわってくれてありがとう、迷惑かけてごめんねなど世話される側はこういう思いを抱いたりするのだろう。

対して世話する側もありがとうとかすまないという気持ちを表してほしいとどこかで求めていることも否めない。

実際に何かしら「してやっている」「○○のためだから」などの感情が生まれてきて世話の有り難さを押し付けていた。

つまり身内の介護は対価を得てする介護とは異なるということ。

頑張ろうね、○○できてよかったねなど綺麗事で片付けられない介護の現実がそこにはあるのだ。

家族という集合体の中で人間たるが故の人間臭さをモロにぶつけ合う。まさに根比べだと思う。

すんなり行くはずの日常がいちいち中断し、もめなくてもいいことで争ったりする。

身内なのに、いや身内だからこそなのだ。

その感情なり気持ちなりをありのまま吐き出せばいいのではないかと私は思う。

唯一、感情を持ち合わせている人間という生き物だから。

そうすればお互いに身も心も疲弊し不幸な介護生活を辿るということもなくなるだろう。

祖母が亡くなって二十年以上が経つ。

ほんのわずかな間の経験だったけれど、世話をすることの大変さを身をもって知ることができた。

それを教えてくれた祖母には感謝している。

そしてもし、この先、私が母を看ることがあったならば、この体験を活かしつつ世話ができるよう人間的に成長していたい。


(福井県・K.S/女性)

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「お姑さんと糸でつながったね」 http://kazoku-kizuna.jp/2022/03/28/%e3%80%8c%e3%81%8a%e5%a7%91%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%a8%e7%b3%b8%e3%81%a7%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%8c%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ad%e3%80%8d/ http://kazoku-kizuna.jp/2022/03/28/%e3%80%8c%e3%81%8a%e5%a7%91%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%a8%e7%b3%b8%e3%81%a7%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%8c%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ad%e3%80%8d/#respond Mon, 28 Mar 2022 02:00:48 +0000 http://kazoku-kizuna.jp/?p=11860 十三才でふる里秋田を離れた姑と随分後になって知りました。

東京と浜松に生活し苦労の日々で夫の父とは三十才程違って三人目の妻で夫の実母でも夫には六人兄弟がいました。

市会議室までいらしてご苦労が多かったと思います。

色々なご事情はうちの親も知らなかったようですが、一人っ子の私で彼の父から彼がうちにと言ってくださったそうで婚約は学生時代でした。

でも卒業してすぐ亡くなってしまい、両家の父不在になってしまい、婚約はなくなりました。彼は自動車会社に、私は教師になりました。

私の母は教師で頑張っていてくれましたが、彼の母は一人暮らしになり、仕事もされて見えませんでしたから心配でした。

彼の兄達は全員離婚され他県へといらしての生活でした。

三人の妻がお産みになった兄弟でした。ご兄弟は六名でもお墓を守る方はと思うと、彼の家のお墓とうちの墓を守るのは私達しかいないと彼と一緒に思いました。

不思議です。彼のご先祖は和歌山県の湯浅出身で名古屋城へお姫様にお供していらしたと。

私は秋田の佐竹様にお仕えして、私は十七代と祖母から聞きました。大事なご先祖様方をお守りしなくっちゃ。

色々な方が色々おっしゃいますが、彼の母について何も本当のところは知りませんし、伺おうとも思いません。

ご苦労を山のようには、お察しできていました。

五黄のトラのO型でいらして全員のお嫁さん方とはお別れしていることはわかっていましたが、実家の母がお母さんは、三六五日おいでになって見えるお客様ですよ。

返事は「はい」ですよと言いました。

すべて食べる事、お風呂はお客様ですよ。

夜は鍵を開けて散歩になってからは手首をベットの上と下でヒモでのないでね出るようにもなりました。

転勤生活から戻ってからの15年は、夫と同じ部屋に眠ることなく、年に二度家族旅行に行きましたが、夫と姑と私や子供は別の号の違う部屋で休みました。

私もある時ノイローゼになってしまい、医大にお世話になった時がありましたが、医師から転勤でこの地を離れていた時、子供さんが生まれてよかったですねとおっしゃられました。

昔、全腹膜の手術で二度の手術の後、臨死体験まである私でしたが、奇跡で二人の息子に恵まれていたのです。

両家を守ってくれると思う子供が産めたから私の任務は終わりなどと勝手に思っていました。

神仏のおかげと思います。感謝しています。

どなたに聞かされてもむずかしいお姑さんでしたが、一度もお叱りやご注意なくこれました。

母の言った言葉がいつも耳の奥にあったからです。

私から姑に色々おききすることはありませんでしたが、姑が次第に小さい頃から様々な歴史をポツポツと話して下さいました。

決して聞か聞き返すことなく、全て初めて聞いたように、はいはいと聞きました。

私の先祖は秋田出身で疎開もさしてもらっているから十三歳まで秋田と分かってからお姑さんと糸が繋がりました。

対に切りません。守るぞって力がわきました。

秋田をよく知っているわけではありませんが、祖母の言葉からしょっつる焼きやじゅんさいやお料理のことが共通の思い出でした。

でも最後まで秋田の佐竹様お仕えの私は十七代等話しませんでした。

姑のご苦労の日々の事を少しでもお話が聞けて良かったと思います。

そんなに遠くなく天国で会えます。楽しみです。


(静岡県・H.Y/女性)

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母の介護で学んだこと http://kazoku-kizuna.jp/2022/03/25/%e6%af%8d%e3%81%ae%e4%bb%8b%e8%ad%b7%e3%81%a7%e5%ad%a6%e3%82%93%e3%81%a0%e3%81%93%e3%81%a8/ http://kazoku-kizuna.jp/2022/03/25/%e6%af%8d%e3%81%ae%e4%bb%8b%e8%ad%b7%e3%81%a7%e5%ad%a6%e3%82%93%e3%81%a0%e3%81%93%e3%81%a8/#respond Fri, 25 Mar 2022 02:00:14 +0000 http://kazoku-kizuna.jp/?p=11792 母が亡くなってから、今年の夏で11年が経つ。亡くなる前の10年間も、ずっと母の介護をして私は暮らしていた。母が亡くなった病院は肺炎だが、肺炎よりもむしろ心の病で生きる気力を無くしていた事がのほうが、大きな要因と思う。

 家族みんなが母は強い人だと思っていた。いつも笑顔で太陽のように、家族全部を照らしているような人だと考えていた。だがそれが大きな誇りだと言う事にみんなが気づいたのは、父の死の後の喪失感からか、母がうつの病になって床につくようになってからだった。今思えば強い母という思い込みは、母が家族全体の間で取っていた役割に過ぎず、一人の弱い人間であるはずの母に、偶像を押し付けていたに過ぎなかったと今では考える。そうした弱い当たり前の人間としての母に、介護を通して直面出来ていたことで、今になってみると大きな経験が得られたと思っている。

 10年にわたるははの介護話の中で、ヘルパーさんなどのように来てもらって、積極的に生活支援を受けるようになったのは、母最晩年の頃だった。最初は介護保険制度の初期の頃に、うつ病で入院していた母が退院する際、訪問看護師さんに来てもらえるなら、という条件で先生から許しが出て介護の生活が始まった。はじめは健康保険を使って訪問看護師さんに来てもらい、介護保険に移行してからは病状の確認とリハビリのために訪問してもらう毎週の習慣は、母の死の年まで続いた。

 そのように心の病を抱えた母を介護する際に、一暮大変だったのは母が一人になるのを極端に嫌がった事だった。買い物などで私が短時間外出するのはいいが、それも1時間位が限度で、好きな音楽を聴きにコンサートに出かけることはできなかった。うつ病といっても例えば自殺を試みるような心配は無かったが、いつでも私や誰かの姿を見ていないと不安な様子だった。子供の頃は私の方が頼りにしていた母が、うつ病になってからは立場が逆転して、子供に頼る弱い姿を見せるようになった。「あんただけ頼りなんだ」と母はよく言っていた。そうした母の変化に私だけでなく、妹や周囲の人も戸惑っていた。

 しかし母の死後、ある程度時が経過してから振り返ってみると、うつ病で床についていた時の母を介護して初めて気づいた、と言う事だろうか。母親としての役割を別の、一人の悩み多き女性としての母の本当の姿にどうしてもっと早く気がつかなかったのか、と今では思う。父が死んだ後、母は「私はお釈迦様の拳の中で遊ばせて貰っていたのかもしれない」と言っていた。そうした一人の齢女性としての母に、介護を通してあの時少しでも寄り添う事が出来ていたなら、それでいいと心から思う。そして母性の限界を知る事を通して、一人の自立した人間として成長出来たとすれば意味はあったと思う。


(北海道・T.T/男性)

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