介護をした日々は、実家の祖母が五年くらいでしたが中学から高校に通いながらでした。
母は教師でしたから私しか頼りない介護でした。
早朝昨日分の洗濯や祖母の食べるものを作っておく事と、お掃除等を皆済ませること、それから学校に急ぎますが昼食は、お隣のおばさんが見てくださるのが頼みの綱でした。
お布団の上に居る祖母にふる里秋田のしょっつる鍋や混ぜご飯等の作り方を聞いてノートに書きました。
じゅんさいとかいう食材などわからないことも多かったけれど、祖母が生きているうちに大事なことはいっぱい聞いて書き留めました。
十六代続いた祖父の武家の時代からのこともぽつぽつ話してくれました。
着物の着方も寝ながらでしたがお作法も教えてくれました。
祖母は医師から名前は呼ばないであげてくださいと注意された最後の数日は天国とこの世を行ったり来たりの日々でした。
結婚した夫の母も秋田出身の母でした。
秋田市内の祖母と男鹿と生まれたところは違いますが、祖母と暮らした日々から学んだことから、食べ物やお話も喜んでくれそうなことができました。
デパートにハタハタ等が出ると涙を浮かべて喜んでくれました。
夫の母は九十歳もすぎ、私達が長い転勤を終えて帰ってくるまで一人で頑張ってくれてましたから、ほっとしてベッド生活になって十五年くらいでした。
祖母の時の体験がとても役に立って、朝一番に赤いものを見たり、部屋のカーテンやお布団、衣類もピンク系、夜はベッドの母と私の手首を毛糸で編んだ腰紐で結んで、母が動けばすぐ分かるように。
その日の気分で深夜でもいつでも腰をあげて外出するから、それに欲しいと思ったもの、食べたいものは全くお金を持たずに立ち寄って食べたり、お金も払わず買うから、必ず集金の方が後ろからついてこられるのです。
お礼を言ってお支払いしてきました。
昔祖母にしてあげられなかった遊びや散歩や食べ物やと私も塾の仕事をしながらでしたから時間にも本当はてんてこまいながら、でも夫は仕事の都合もあって不在が多かったから精一杯やる毎日でした。
でも十五年の内には病気の先生から私ひとりでは無理だから施設へと何度も勧められましたが、母が嫌と先生に言うのです。
最後まで家で食事も朝食の後、昼食は二口くらい食べてくれましたが、もういいわと言って旅立ちました。
とても穏やかな眠りでした。
夫はすぐ後にガンが見つかり手術できない肺とかリンパとかといろいろで五年程入退院がありました。
大好きなブルーマウンテンのコーヒーを朝立てて病院に運び続けました。末期の水ではなく末期のコーヒーを私の唇であげました。嬉しそうな顔に感じました。
母も夫も思えば長い長い日々でしたが、でもきっと満足して旅立ってくれたと信じます。
私の母は転勤中一人で旅立ち本当に私は親不孝者です。
母さんごめんなさい。父も疎開中この浜松で留守番生活のままでした。
(静岡県・H.Y/女性)
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