母の介護で学んだこと


母が亡くなってから、今年の夏で11年が経つ。亡くなる前の10年間も、ずっと母の介護をして私は暮らしていた。母が亡くなった病院は肺炎だが、肺炎よりもむしろ心の病で生きる気力を無くしていた事がのほうが、大きな要因と思う。

 家族みんなが母は強い人だと思っていた。いつも笑顔で太陽のように、家族全部を照らしているような人だと考えていた。だがそれが大きな誇りだと言う事にみんなが気づいたのは、父の死の後の喪失感からか、母がうつの病になって床につくようになってからだった。今思えば強い母という思い込みは、母が家族全体の間で取っていた役割に過ぎず、一人の弱い人間であるはずの母に、偶像を押し付けていたに過ぎなかったと今では考える。そうした弱い当たり前の人間としての母に、介護を通して直面出来ていたことで、今になってみると大きな経験が得られたと思っている。

 10年にわたるははの介護話の中で、ヘルパーさんなどのように来てもらって、積極的に生活支援を受けるようになったのは、母最晩年の頃だった。最初は介護保険制度の初期の頃に、うつ病で入院していた母が退院する際、訪問看護師さんに来てもらえるなら、という条件で先生から許しが出て介護の生活が始まった。はじめは健康保険を使って訪問看護師さんに来てもらい、介護保険に移行してからは病状の確認とリハビリのために訪問してもらう毎週の習慣は、母の死の年まで続いた。

 そのように心の病を抱えた母を介護する際に、一暮大変だったのは母が一人になるのを極端に嫌がった事だった。買い物などで私が短時間外出するのはいいが、それも1時間位が限度で、好きな音楽を聴きにコンサートに出かけることはできなかった。うつ病といっても例えば自殺を試みるような心配は無かったが、いつでも私や誰かの姿を見ていないと不安な様子だった。子供の頃は私の方が頼りにしていた母が、うつ病になってからは立場が逆転して、子供に頼る弱い姿を見せるようになった。「あんただけ頼りなんだ」と母はよく言っていた。そうした母の変化に私だけでなく、妹や周囲の人も戸惑っていた。

 しかし母の死後、ある程度時が経過してから振り返ってみると、うつ病で床についていた時の母を介護して初めて気づいた、と言う事だろうか。母親としての役割を別の、一人の悩み多き女性としての母の本当の姿にどうしてもっと早く気がつかなかったのか、と今では思う。父が死んだ後、母は「私はお釈迦様の拳の中で遊ばせて貰っていたのかもしれない」と言っていた。そうした一人の齢女性としての母に、介護を通してあの時少しでも寄り添う事が出来ていたなら、それでいいと心から思う。そして母性の限界を知る事を通して、一人の自立した人間として成長出来たとすれば意味はあったと思う。


(北海道・T.T/男性)