頑張ってくれてありがとう

2009年10月。67歳だった夫は町民運動会の年代別リレーで、足がもつれて転んでしまいました。後で考えるとそれは多系統萎縮症という病気発症の兆しでした。この病気は、脳の運動神経細胞が徐々に消失していく進行性の難病です。原因は分からず治療薬もありません。
発症から数年後には歩けなくなり、食べられなくなり、しゃべれなくなり、ついには呼吸も出来なくなり・・・・
入退院を繰り返す夫を、当時は二人暮らし だった私が介護し、結婚して家庭を持っている二人の娘が私を支えてくれました。
病気が進行した2013年の正月、その日の夫は珍しくしっかりしていて、意識もはっきりしていました。自宅のベッドに横になり、 私が指さす文字に反応して思いを伝えます。
「む・す・め・た・ち・を・た・の・む」 「え・ん・め・い・は・の・ぞ・ま・な・い」
「そ・う・し・き・は・し・な・く・て・ い」「い・な・く・ても・や・っ・て・い・け・るか」
続けているうちに疲れて、だんだん反応が 鈍くなっていきます。
最後に、「い・い・ひ・と・が・い・た・ら・・」
もう後は続きません。私は夫の顔をじっと見つめて言いました。
「あなたの他に、私はどこにも誰にも行きませんよ」
泣くまいと思いながら、涙があふれました。 夫の頬を伝う涙を私の指でそっと拭い、手のひらで夫の顔を包みました。見つめ合いなが ら、深く心が交感するのを感じました。結婚して40年。こんなに心が通い合ったと思ったのは初めてでした。
その後は誤嚥性肺炎や病気の合併症で、入 院することが多くなりました。私は毎日のように病院に通いましたが、長女もよく夫に付き添ってくれました。それまで長女と夫は衝 突する事が多く、結婚前は家を出ていました。それなのに髭をそったり、口腔ケアをしたりと何くれとなく面倒をみてくれるのです。ある時「病気のお父さんと私は対等じゃない。もう降りた」と言いました。それは喜ばしいことなのか、夫が負けたということなのか、 私には理解できない父娘関係でした。
そんな長女が深く父親のことを思っていることを知ったのは、夫が亡くなった日のこと でした。主治医から病理解剖の申し出があり、 悩み迷った末に私は承諾をしました。夫なら 「病気の解明に少しでも役に立てるなら」と きっと同意したと思ったからです。そして六年間、夫と私達家族に寄り添って下さった主 治医への感謝の気持ちがありました。何より、 夫の曲がって縮んだ足が少しでも伸びるようにと、亡くなってからも足を摩って下さった 主治医の真心に打たれたからです。
長女は「先生、解剖後の父の頭や顔を絶対ぜったいに元通りきれいにすると約束してください」と訴えました。私はそこまで考えが及びませんでした。そしてその約束は守られました。 夫は本当に何年かぶりにカッターシャツと スーツを身に付け、お気に入りだった絞りのネクタイを締めて旅立ちました。74歳でした。変形してしまった腕では、パジャマの袖も通せなかったので、スーツを着ることは 諦めていたのですが、納棺師の方が「関節を外して袖を通すことが出来るのですよ」と着せて下さったのです。 自然な化粧で、本当に穏やかな顔でした。 亡くなったことは家族にとって辛く悲しいこ とです。でも悲しみと共に心は穏やかでした。 痛いとも苦しいとも言うことも出来ない、水も飲めない、寝返りも打てない、指一本動かせない。自分の意思で何一つ出来ずに、ただ時間の経過だけを待つ日々がどんなに夫の自尊心を傷つけていたことでしょう。「やっと楽になれたわね。向こうに行ったら、思う存分動き回ってね」と心の中で夫に話し掛けました。そして「お疲れさま。人生をまっとうしたと胸を張って下さい。あなたのお陰で家 族の心が一つになれました」と言いました。
長い介護生活の間には色々な事がありました。夜中に何度もトイレに付き添い、つい「またなの」と言ってしまいます。それでも我慢をして優しくしているつもりなのに、 夫がケアマネジャーさんに「面倒をみてくれないから離婚したい」などと言っているのを聞くと腹が立つこともありました。
また病気が進んでからの痰の吸引、おむつの交換、胃ろうによる栄養注入など、介護を受ける夫の心中を思って辛くなることもありました。
夫は「延命治療は望まない」と言い残しました。その意思を尊重することは医療行為に反することでもあります。例えば2014年、私は卵巣嚢腫で子宮、卵巣、卵管の全摘手術を受けました。二日後には手術という日に夫の血圧が急激に下がりました。血圧が戻らなければ命に拘わります。強制的に血圧を上げるのか、上げないのか。これも延命治療です。「先生、私が手術を終えて退院してくるまで夫をお願いします」と私は主治医に伝えまし た。娘たちがハラハラしながら私の退院を待ったのです。
気管切開も夫は拒んでいました。しかし気道を確保しない選択肢はないのです。胃ろうもしかり。その都度、その都度悩み、迷い、 娘たちと話し合いました。夫にとっては辛く苦しいだけの延命治療だったかも知れません。
さよならの時に言いました。
「私達のために頑張ってくれてありがとう」
(愛知県・H.K/女性)