病魔と闘ってくれた父
年老いた父は、認知症と診断された後も、ずっと自宅で暮らしていました。
毎日、同じ時間に寝起きし、同じ時間に同じルートで近くのスーパーへ行き、同じものを買って自炊していました。
成年後見人を申請する際に取った診断書には、認知症はかなり進行していると記してあり、周りの者はいつもハラハラしながら見守っていましたが、頑固な父は、誰が何を言っても聞く耳を持ちません。そのうち、会話も次第に怪しくなっていきました。
そんな父が歩行中に転倒し、大腿骨を骨折したのは、梅雨の最中の事でした。緊急搬送、緊急手術、通常病棟からリハビリ棟への転院と、本人の意思に関係なく、事態は進行していきました。父が足を折った時点で、自宅での自炊の継続はあり得ないと思いました。段差の多い古い戸建て、狭い階段、歩けなくなった父が、そこで自炊する状況は到底考えられません。私はリハビリ棟での療養中に、老人ホームを探すことにしました。
頑固な父は、リハビリ棟では常に疎まれてました。全く他人を寄せ付けず、医師の話も聞こうとしません。会話もままならず、すぐに施設を出ようとして、いつもスタッフの人を困らせていました。そんな事の続いたある日、施設から呼び出しがあり、精神病院への転院を勧められました。リハビリ棟のスタッフからは、「もう私達の手に負えません。お父さんを救える場所はここしかないと思います」と告げられました。父の部屋に向かうと、父は「うちに帰る」と呟きながら、自分の持ち物をベッドの上に並べていました。
私の見つけた老人ホームは、部屋の模様替えが自由という、とても大らかな施設でした。そのコンセプトを聞いた時、ふと何かが閃いたような気になり、その場で入居を決めました。私は手続きを済ませると、すぐに自宅に戻り、母の遺影と小さな仏壇、汚れたままのカーテンと使い古した小さな箪笥、部屋に敷きっぱなしだった絨毯を車に詰め込み、おそらく終の棲家になるであろう、その施設に向かいました。施設に着くと、私は出来る限り父の部屋の再現に取り掛かりました。母の遺影も父の布団から同じ角度で見えるように、敷きっぱなしだった絨毯の上に、使い古した小さな箪笥と仏壇を置き、父の入居の準備を整えました。
翌日、部屋に案内された父は、何が起こっているのか、案内されたこの場所はどこなのか、かなり戸惑っているようでした。もちろん、父の部屋のすべてが再現できるわけではありません。でも、何か少しでも部屋に馴染んでもらえないだろうかと、それだけを考えた末の作業でした。車いすに座ったままの父は、状況の整理が出来ないのか、身動きもせず、じっとしたままでした。
その日は諦めて引き揚げようかと、仏壇を開けてリンを鳴らし、母の遺影に合掌しました。すると父が何かを思い出したように車いすから立ち上がり、声を出してお経を唱え始めました。私は父のその姿を見て、これまで抱えてきた不安や疲労が安堵とともに一気に込み上げ、しばらくの間、涙を堪えながらその場に立ち竦んでいました。
父はその施設で落ち着きを取り戻し、一年近くを過ごした後、悪性リンパ腫を患い、静かに息を引き取りました。遺品を整理していると、見慣れない大学ノートが出てきました。そこには自分の名前と住所、私達家族と孫の名前と連絡先、そして「病院」「認知症」「お薬」など、普段使う言葉や語句がびっしりと、繰り返し繰り返し書き連ねてありました。最初の頁は正常だった頃の几帳面で達筆な楷書体、頁が進む毎にその文字は大きくなり、最後の方は子供の落書きのような大きな文字になっていました。
認知症であることを素直に受け入れ、自分に出来ることを可能な限り試みていたことや、自分の想いを言葉に出来なくなっていくもどかしさや葛藤、認知症がかなり進行していたにも関わらず、一度も徘徊することなく、最後まで自炊を続けることが出来た理由など、認知症を患ってからの、父の想いや行動が、一行一行を通して伝わってくるようでした。その大学ノートは、最後の最後まで家族を想い、病魔と闘ってくれた父の形見として、大切にとっておくことにしました。
(埼玉県・K.Y/60代・女性)