自分を犠牲にして行う


何か善い行いをするときには、相手からのお礼を期待せず、むしろ「こちらからの一方通行で構わない」という気持ちで行いましょう。道徳的な行為とは、本来自分を犠牲にして行うものであり、見返りを目的とするものではないからです。

ところが実際には、親切にしているのに相手から感謝されなかったり、期待していた反応がなかったりすると、腹を立ててしまうことがあります。あるいは贈り物をしたのにお返しがないと、不満を感じることもあります。また、自分の方が高価なものを贈った時には優越感を抱いたり、お返しが粗末なものだと馬鹿にされているような気持ちになる人もいると思います。

相手の出方によって腹を立てたり不満を感じたりするのは、見返りを求める利己的な心があるからです。そうではなく、純粋に相手の幸せを祈る気持ちを忘れないようにしたいものです。

そもそも、これまで私たちは何の過失もなく、また誰の世話にもならずに生きてきたのでしょうか。そんな人は、まずいないはずです。その埋め合わせをしようという気持ちになれば、返礼を期待する必要などないと思えるはずです。道徳的行為は「ギブ・アンド・テイク」ではありません。あくまで犠牲的に行うものなのです。


出典:「三方よし」の人間学-廣池千九郎の教え105選